
スティーブ・ジョブズが2011年に世を去ってから、すでに10年以上の歳月が流れた。彼の死後、Appleは時価総額で世界最大の企業へと成長し、かつてない経済的成功を手にしている。しかし奇妙なことに、Appleが繁栄すればするほど、「ジョブズならこんなことはしなかっただろう」という声は大きくなるばかりだ。この矛盾は何を意味しているのか。Appleは創業者の夢を裏切ったのか、それとも彼が見た未来を実現させたのか。
革命家の本質──「違うこと」への執念
ジョブズが体現していたのは、単なる優れた製品を作る能力ではなかった。彼の本質は「世界を変える」という使命感にあった。1997年の有名な広告キャンペーン「Think Different」は、彼の哲学を象徴している。そこで讃えられたのは、アインシュタインやピカソ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアといった「クレイジー」と呼ばれた人々だった。つまりジョブズにとって、テクノロジーは手段に過ぎず、真の目的は人類の知的・創造的可能性を拡張することだった。
彼の製品哲学は明確だった。Macintoshはコンピュータを「技術者のもの」から「すべての人のもの」へと解放した。iPodは音楽業界の構造そのものを破壊し再構築した。そしてiPhoneは、電話という概念を根底から覆し、人類とテクノロジーの関係性を書き換えた。これらはいずれも、既存の市場を「改善」したのではなく、まったく新しい市場を「創造」したのである。
重要なのは、ジョブズが「顧客の声を聞かなかった」ことだ。彼の有名な言葉がある。「人々は見せてあげるまで、自分が何を欲しいのか分からない」。これは傲慢に聞こえるかもしれないが、本質を突いている。真の革新は、既存の欲望を満たすのではなく、新しい欲望を創り出すことによってのみ達成される。ジョブズは市場調査ではなく、人間の本質的な欲求──美しいもの、シンプルなもの、直感的に理解できるものへの憧れ──を深く洞察していた。
「完璧主義」という呪いと祝福
ジョブズの製品開発における執念は伝説的だった。iPhoneの角の丸みは何度も作り直された。iOS 7のデザイン変更では、青色の色調だけで何週間も議論が続いた。彼は「見えない部分」の美しさにさえこだわった。初代Macintoshの基板には、製造に関わったエンジニア全員の署名が刻まれている。誰も見ない場所にも、美意識が貫徹されていた。
この完璧主義は、単なる美的趣味ではない。それは「統合」という彼の根本思想の表れだった。ジョブズは、ハードウェアとソフトウェア、デザインと機能、形態と体験のすべてが、ひとつの統一されたビジョンの下に調和することを求めた。これはAppleが「垂直統合」のビジネスモデルを採用してきた理由でもある。部品から販売まで、すべてをコントロールすることで、完璧な体験を保証しようとしたのだ。
しかし、この完璧主義には代償があった。ジョブズの下で働くことは、しばしば地獄のような体験だったと証言されている。彼は容赦なく批判し、気に入らないものは「クソだ」と罵倒した。多くの才能ある人材が燃え尽き、去っていった。つまりジョブズの天才性は、同時に破壊的でもあったのだ。
ティム・クックのApple──成功という名の変質
ジョブズの後を継いだティム・クックは、まったく異なるタイプのリーダーだった。オペレーションの天才であるクックは、Appleを驚異的な効率性を持つ巨大企業へと成長させた。供給網の最適化、製造コストの削減、新興市場への拡大──これらすべてにおいて、クックは卓越した手腕を発揮した。その結果、Appleの時価総額は3兆ドルを超え、利益率は史上最高水準に達している。
しかし、製品面での革新性については、疑問符がつく。ジョブズ死後のAppleが生み出した真に革命的な製品は何か。Apple Watchは優れた製品だが、スマートウォッチ市場を「創造」したわけではない。AirPodsは大ヒット商品だが、ワイヤレスイヤホンという概念自体は新しくない。Vision Proは技術的に驚異的だが、市場の反応は冷ややかだ。
より象徴的なのは、iPhoneの進化の仕方だろう。毎年発表される新モデルは、確かに改善されている。カメラは良くなり、プロセッサは速くなり、バッテリーは長持ちするようになった。しかしこれは「漸進的進化」であり、「破壊的革新」ではない。ジョブズが初代iPhoneで見せたような、世界の見方を根底から変えるような衝撃は、もはや存在しない。
現在のAppleは、製品ラインナップを拡大し続けている。さまざまなサイズのiPhone、iPad、MacBook、そしてProモデル、Maxモデル、Ultraモデル。これは市場セグメンテーションの論理に基づいた戦略だが、ジョブズの哲学とは対極にある。ジョブズは選択肢を減らし、「これが最良だ」と断言することを好んだ。2011年にiPhoneは1モデルしかなかった。現在は十数種類のバリエーションが存在する。
サービス帝国への転換──魂の値段
もっと根本的な変化は、Appleのビジネスモデルの転換にある。現在のAppleにとって、サービス部門は最も急成長している収益源だ。Apple Music、Apple TV+、iCloud、App Store手数料──これらは年間1000億ドル近い売上をもたらしている。財務的には賢明な戦略だが、ここには微妙な問題が潜んでいる。
ジョブズのAppleは、「素晴らしい製品を作れば、お金は後からついてくる」という信念で動いていた。利益は目的ではなく、優れた製品を作り続けるための手段だった。しかし現在のAppleは、サブスクリプションモデルによって顧客から継続的に収益を吸い上げる構造を構築している。これは「製品企業」から「プラットフォーム企業」への転換を意味する。
この転換は、Appleと顧客の関係性を根本的に変える。かつて、顧客は製品を「所有」していた。しかし今、顧客は「アクセス権」を買っている。音楽も映画もソフトウェアも、すべて月額料金を払い続けなければ使えない。これは確かに現代的なビジネスモデルだが、ジョブズが夢見た「人々に力を与える」という理念とは、どこか違うもののように感じられる。
さらに、App Store手数料をめぐる訴訟や規制当局との対立は、Appleが「独占的プラットフォーム」として批判される状況を生んでいる。開発者から30%の手数料を徴収し、代替的な決済手段を認めない姿勢は、かつてMicrosoftを批判していたジョブズの姿勢とは矛盾しているように見える。Appleは、かつて戦った「帝国」そのものになったのではないか。
逆説の真理──継続性としての変化
しかし、ここで視点を変える必要がある。Appleがジョブズの夢を「裏切った」という批判は、ある重要な事実を見落としている。それは、ジョブズ自身が常に変化し続けた人物だったという事実だ。
1985年にAppleを追放された彼は、NeXTとPixarで全く異なる経験を積んだ。そして1997年に復帰したとき、彼は以前とは異なる人物になっていた。より成熟し、より戦略的で、より現実的になっていた。初期のジョブズなら決して妥協しなかったであろう決断──たとえばiPodをWindowsに対応させること、Intelプロセッサを採用すること──を、彼は躊躇なく実行した。
つまり、「ジョブズならこうしただろう」という仮定そのものが、実は幻想なのだ。もし彼が今も生きていたら、彼自身も変化していただろう。テクノロジー環境も市場も社会も、2011年とは劇的に変わっている。AI、クラウド、プライバシー問題、地政学的緊張──これらすべてに、ジョブズがどう対応したかは誰にもわからない。
より本質的には、ジョブズ自身が「永続性」を重視していたことを思い出すべきだ。彼は単に革命的な製品を作りたかったのではない。彼が本当に望んでいたのは、自分が死んだ後も続く企業を作ることだった。2011年8月、死の直前に彼がティム・クックに言った言葉は、「自分ならどうするかを考えるな。正しいことをしろ」だったと伝えられている。
この言葉は深い。ジョブズは、自分の模倣を求めなかった。彼は、変化する世界の中で正しい判断をすることを求めたのだ。そして、企業が永続するためには、創業者の不在を乗り越えなければならない。創業者の亡霊に取り憑かれた企業は、やがて博物館になる。
二つの魂の間で──Appleの実存的ジレンマ
現在のAppleは、二つの魂の間で引き裂かれている。一方には、革命家ジョブズの遺産──リスクを取り、常識を疑い、世界を変えるという使命。他方には、成熟した巨大企業としての責任──株主への利益還元、従業員の雇用維持、規制への対応、持続可能な成長。
この緊張関係は、Vision Proに象徴的に現れている。この製品は、技術的野心という点では明らかにジョブズ的だ。まったく新しいコンピューティングパラダイムへの挑戦であり、空間コンピューティングという未知の領域を切り開こうとしている。しかし同時に、3500ドルという価格設定と限定的な用途は、大衆市場よりも利益率を優先する慎重な企業判断を示している。
ジョブズならば、もっと大胆に賭けたかもしれない。あるいは、技術が十分に成熟するまで発表を待ったかもしれない。初代iPhoneは、技術的には未完成だった部分もあったが、それでも「これが未来だ」と確信させる何かがあった。Vision Proには、その確信が欠けているように感じられる。
しかし公平に見れば、ティム・クックのAppleは、ジョブズが築いた基盤の上で、別の形で世界を変えている。Apple Watchは何百万人もの人々の健康管理を変えた。プライバシー重視の姿勢は、テック業界全体に影響を与えている。カーボンニュートラルへのコミットメントは、企業の社会的責任の新しい基準を設定している。これらは派手ではないが、確実に世界を良くしている。
結論──完成なき完成
最終的に、「裏切りか完成か」という二項対立は、問い自体が間違っているのかもしれない。Appleはジョブズの夢を裏切ってもいないし、完成させてもいない。なぜなら、真の革新者の夢は、決して完成することがないからだ。
ジョブズが遺したのは、完成された青写真ではない。彼が遺したのは、絶え間ない問いかけだ。「これは本当に最良なのか?」「もっと良い方法はないのか?」「ユーザーは本当に喜ぶのか?」この問いかけを続ける限り、Appleはジョブズの精神を継承している。逆に、過去の栄光に満足し、安全な道だけを歩むなら、そのとき初めて、Appleは彼を裏切ったことになる。
現在のAppleは完璧ではない。かつてのような破壊的革新は失われたかもしれない。しかし企業として、そして社会的存在として、より成熟し、より責任を持つようになった。これを堕落と見るか進化と見るかは、見る者の価値観による。
ジョブズ自身、決して完璧な人物ではなかった。彼の天才性と破壊性は、同じコインの裏表だった。彼がいなくなったことで、Appleはある種の暴力性を失ったが、同時にある種の安定性を得た。これは損失であり、同時に獲得でもある。
真の遺産とは、過去を保存することではなく、未来を創造し続けることだ。ジョブズの亡霊は、Appleを糾弾するためにではなく、Appleを鼓舞するために存在すべきだ。「お前たちはまだ十分にクレイジーか?」という問いかけとして。その問いに対する答えは、次の10年でAppleが何を生み出すかによって示されるだろう。
スティーブ・ジョブズの最大の贈り物は、製品でもビジョンでもなかった。それは「現状に満足しない」という永遠の不満足だった。その炎がAppleの中で燃え続ける限り、彼の夢は生き続けている。たとえその炎の形が、彼が生前に見たものとは違っていたとしても。