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フランシス・フォード・コッポラ『メガロポリス』——資本主義の先にユートピアを見ること

フランシス・フォード・コッポラが自己資金1億2000万ドルを投じて完成させた『メガロポリス』(2024)は、興行的に壊滅し、批評的に分裂した。北米興行収入は製作費の12%にも満たず、ラジー賞まで贈られた。だがそのことは、この映画が傑作であるという事実を何ひとつ損なわない。むしろ、この映画が「失敗」したという事実そのものが、作品のテーゼを裏側から証明している。

なぜなら『メガロポリス』は、資本主義的な成功の論理の「外側」にユートピアを構想する映画だからだ。その映画自体が資本主義的な成功の論理の外側で作られ、外側で受容された。これほど作品とその運命が一致している例は稀だ。

カジノかポピュリズムか——二択を拒否する映画

『メガロポリス』の物語構造は明快だ。舞台は「ニュー・ローマ」と呼ばれるオルタナティブな21世紀のニューヨーク。アダム・ドライバー演じる建築家シーザー・カティリナは、「メガロン」という革命的な新素材を発明し、それを用いてユートピア都市「メガロポリス」を建設しようとする。対立するのは市長フランクリン・チチェロ(ジャンカルロ・エスポジート)。チチェロは即座に税収を生むカジノ計画を推進する。そこにシャイア・ラブーフ演じるクロディオ・プルカーが、トランプ的なポピュリズム運動を起こして割り込んでくる。

ここで重要なのは、コッポラがカティリナに託した「未来」の性質だ。

チチェロのカジノは、資本主義の現在形である。利益を最大化し、リスクを管理し、予測可能な収益を生み出す。それはラスベガスの論理であり、ウォール街の論理であり、つまりは我々が「現実的」と呼んでいるもののことだ。カジノとは、射幸心を組織化して利潤に変換する装置であり、そこには何の理念もない。あるのは数字だけだ。

クロディオのポピュリズムは、資本主義の裏面だ。"Make New Rome Great Again"のプラカードが象徴するように、それはトランプ的な——つまり、システムの腐敗に対する怒りを権威主義的カリスマに回収するタイプの政治運動である。このルートもまた、未来を構想しない。それは「かつての偉大さ」への退行であり、ノスタルジーの暴力的な組織化にすぎない。

コッポラは、このどちらも退けている。カティリナの「メガロポリス」は、カジノでもなければ"偉大なアメリカの復活"でもない。それは第三の道だ。そしてその第三の道を、コッポラはユートピアと呼ぶ。

メガロンとは何か——まだ存在しない思考の物質化

カティリナが発明した新素材「メガロン」は、この映画で最も誤解されている要素だろう。多くの批評家がメガロンの非科学性を指摘し、プロットの穴だと断じた。だが、それは読みが浅い。

メガロンは科学的な素材ではない。それは芸術的・精神的な物質だ。映画の中で明示されているように、メガロンはカティリナの亡き妻サニー・ホープへの愛と悲しみから生まれた。それは感情が物質化したものであり、ヴィジョンが形を取ったものだ。メガロンは人間の意識の延長であり、想像力が現実を変容させうるという信念の物質的表現である。

これが意味するのは、コッポラのユートピアが資本でも技術でもなく、意識の変容によって到来するということだ。既存の素材——つまり既存の思考、既存の価値観、既存の社会構造——では、ユートピアは建設できない。まだ存在しない物質=まだ存在しない思考が必要なのだ。

カティリナが時間を停止させる能力を持っているという設定も、同じ文脈で読むべきだろう。時間を止めるとは、資本主義の時間——つまり利潤を生むために不断に加速する時間——から離脱するということだ。覚醒した意識は、流れに逆らって「見る」ことができる。そしてその視線の中にだけ、ユートピアの設計図が現れる。

85歳の賭け——ハリウッドの外側から語ること

コッポラはこの映画を作るために、自身のワイナリー帝国の一部を売却し、1億2000万ドルを投じた。ハリウッドのどのスタジオも出資しなかった。85歳の映画作家が全財産を賭けて、自分だけのヴィジョンを形にした。

この事実は、映画のテクストの一部として読まなければならない。カティリナが権力者たちの反対を押し切ってメガロポリスを建設しようとするのと同じように、コッポラはハリウッドのシステムの外側から、自分のヴィジョンだけを頼りにこの映画を完成させた。カティリナの孤立はコッポラの孤立であり、メガロンのユートピア性はこの映画そのもののユートピア性と重なる。

ジャスティン・チャンが指摘したように、この映画はスタジオの干渉なしに完成されたことで、意図せざる自己言及性を獲得している。しかし私は、それは「意図せざる」ものではないと考える。コッポラは1977年の『地獄の黙示録』撮影時にこの構想を得て以来、47年間この物語を温めてきた。その間に彼は、映画産業の変質を身をもって経験してきた。彼がスタジオシステムの外側を選んだのは、偶然ではなく必然だ。ユートピアは、既存のシステムの内側からは決して到来しない——それがこの映画の、そしてこの映画の制作過程そのものが語っているメッセージだ。

『メトロポリス』から『メガロポリス』へ——100年後の応答

フリッツ・ラングの『メトロポリス』(1927)は、資本と労働の対立を都市の垂直構造として視覚化した。地上の支配者と地下の労働者。その和解は「頭脳と手を結ぶのは心である」という結論に帰着した。

コッポラの『メガロポリス』は、100年後にこの問いを更新している。もはや問題は資本と労働の二項対立ではない。21世紀の問題は、資本主義という思考そのものが想像力を植民地化しているということだ。我々は資本主義的な発想の「外側」で未来を思考することすらできなくなっている。チチェロのカジノもクロディオのポピュリズムも、資本主義の内側での選択にすぎない。

カティリナの時間停止能力は、まさにこの植民地化からの離脱を象徴している。流れ続ける資本の時間を一瞬止めて、まったく異なる論理で世界を見ること。メガロンという「感情から生まれた物質」は、利潤計算とは無関係な動機から未来を構想しうるという、ほとんど絶望的な希望の表現だ。

ラングの『メトロポリス』が問うたのは「いかにして和解するか」だった。コッポラの『メガロポリス』が問うているのは「いかにして既存の論理の外側に出るか」だ。それは100年間で問題が解決するどころか深化したということであり、同時に、芸術がその深化に応答し続けているということでもある。

傑作は失敗する

左派の批評家はこの映画を「反動的」と呼んだ。既存の階級構造を温存したまま建築だけを変えても真のユートピアにはならない、と。右派の批評家はこの映画を「説教的」と呼んだ。保守的な批評家は「散漫で非論理的」と呼んだ。一般観客は「意味がわからない」と言った。

すべて正しい。そしてすべて的を外している。

この映画が「散漫」であるのは、覚醒した意識の状態がそもそも散漫だからだ。すべてが同時に押し寄せてくる。整理されていない。既存のナラティブの文法に従わない。コッポラはその状態を映像として再現している。『ゴッドファーザー』を撮った人間が、整った映画を作る能力を持っていないはずがない。彼はわざわざ破綻を選んでいる。その破綻こそが表現なのだ。

そしてこの映画が「失敗」したという事実——興行的に壊滅し、批評的に割れ、ラジー賞を贈られたという事実——は、コッポラのヴィジョンの純度を逆説的に証明している。資本主義の論理の外側に立つ映画が、資本主義の論理で成功するはずがない。もし『メガロポリス』がヒットしていたら、それはこの映画のテーゼの自己矛盾を意味しただろう。

コッポラ自身がインタビューで述べている。「ユートピアとは固定された目的地ではなく、進行中の対話である」と。この映画はユートピアの完成図を提示しない。その代わりに、ユートピアを構想する意識そのものを——その混乱と過剰と矛盾ごと——スクリーンに叩きつけている。

2024年、トランプが再選される直前のアメリカに向かって、85歳のフランシス・フォード・コッポラは全財産を賭けて言った。お前たちの選択肢はカジノかポピュリズムかの二択じゃない。第三の道がある。それはまだ見えていない。まだ存在しない素材で作られる。だがそれは、愛から生まれる。

これを傑作と呼ばずして、何を傑作と呼ぶのか。