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伊藤計劃『ハーモニー』——理性が優しさを支配した未来で、人は幸福か

伊藤計劃『ハーモニー』——理性が優しさを支配した未来で、人は幸福か

夭逝の天才が遺した予言

伊藤計劃という名を知らない読者も少なくないだろう。二〇〇九年、三十四歳という若さで世を去った作家である。しかし彼が遺した三つの長編——『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』(円城塔との共著)——は、日本SFの地平を一変させたと言って過言ではない。特に『ハーモニー』は、その死の直前まで病床で推敲を重ねた遺作であり、同時に彼の思想が最も先鋭化した作品として知られている。

伊藤計劃の特異性は、ゼロ年代のサブカルチャー的感性と、二十世紀を貫いた哲学的主題とを、驚くべき精度で接合させた点にある。彼はハリウッド映画やゲーム、アニメといったポップカルチャーを深く愛しながら、同時にフーコーやデリダといった現代思想を咀嚼し、テクノロジーと人間性の関係という古くて新しい問いを、まったく新しい文体で提示してみせた。

完璧に「優しい」世界の恐怖

『ハーモニー』が描く未来は、一見すると理想郷である。大災禍:ザ・メイルストロムと呼ばれる大規模な戦争と混乱を経て、人類は徹底的な健康管理社会を構築した。人々の体内には「WatchMe」と呼ばれるナノマシンが埋め込まれ、常時健康状態をモニタリングし、病気を事前に予防する。喫煙も飲酒も過食も、すべて「リソース」である身体を傷つける行為として社会的に抑制される。人々は互いに「やさしく」「思いやり」を持って接し、誰も傷つけず傷つけられない。

この世界では、かつて人類を苦しめた病も争いも、ほぼ消滅している。医療テクノロジーは人間の寿命を飛躍的に延ばし、精神的な不調も適切に管理される。誰もが健康で、誰もが調和の中で生きている。それは人類が何千年も夢見てきたユートピアのはずだった。

しかし主人公トァンの目に映るこの世界は、耐え難いほど息苦しい。少女時代、彼女は二人の友人とともに自殺を企てる。それは社会への反抗でもあり、完璧に管理された生の中で唯一自分の意志を証明する方法だった。計画は失敗し、一人だけが死に、トァンは生き延びる。そして十三年後、かつての友人ミァハが仕掛けた壮大な「計画」が動き出す。

意識という最後の牢獄

ミァハの計画は衝撃的である。彼女は人類から「意識」そのものを奪おうとする。WatchMeのネットワークを利用し、全人類の脳に介入して、自我や葛藤、煩悶といった意識の機能を停止させ、完全に調和した存在へと変容させようというのだ。人々は意識を失い、ただ穏やかに、争うことなく、苦しむことなく生きる。それはもはや人間と呼べる存在なのか。

ここで伊藤計劃が提示するのは、究極の問いである。もし苦悩も葛藤もない完璧な幸福が実現可能だとして、それは望ましいのか。人間の意識とは、つまり自我とは、苦しむためにあるものなのか。そして、もし苦しみを取り除けるのなら、意識そのものを放棄することは正当化されるのか。

この作品が恐ろしいのは、ミァハの計画に一定の論理的整合性があることだ。彼女は狂信者ではない。むしろ徹底的に合理的で、究極的に「優しい」人物である。彼女は人類の苦悩を本気で終わらせたいのだ。そのためには意識という、苦悩の源泉そのものを消去すればいい。論理は完璧である。しかし、それでもなお、私たちはその結論に戦慄する。

優しさの暴力性

『ハーモニー』が突きつけるのは、善意と優しさが極限まで推し進められたとき、それは暴力に転化するという逆説である。作中の社会は、誰も傷つけたくないという純粋な願いから生まれた。しかしその願いは、個人の自由や選択を徹底的に制限することで実現される。タバコを吸う自由、不健康な食事をする自由、自分の身体を自分で痛めつける自由——それらはすべて「リソースの毀損」として否定される。

伊藤計劃が鋭く看破するのは、現代のヘルスケア言説が孕む全体主義的な側面である。健康であることは善であり、不健康であることは悪である。この単純な二項対立が、いつの間にか道徳的な強制力を帯びる。喫煙者は非難され、肥満は自己管理の失敗として糾弾される。それは本当に個人の自由な選択なのか、それとも社会的な圧力による服従なのか。

作中で描かれる「生府」という統治機構は、強権的な独裁とは異なる。むしろそれは徹底的に民主的で、透明で、合理的である。人々は自ら進んでWatchMeを埋め込み、自ら進んで健康的な生活を選択する。誰も強制されていないように見える。しかし、そこには選択しない自由がない。社会全体が一つの方向——健康で調和的な生——へと収斂していくとき、異なる生き方を選ぶことは事実上不可能になる。

デカルト的主体の終焉

より深層において、この作品は西洋近代哲学が前提としてきた「意識する主体」という概念そのものを問い直している。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」以来、意識は人間の本質であり、自己同一性の根拠とされてきた。しかしミァハは問う。その意識は本当に必要なのか、と。

神経科学の知見を援用しながら、作品は意識が後付けの説明装置に過ぎない可能性を示唆する。私たちは自分が自由意志によって行動していると信じているが、実際には脳の無意識的なプロセスが先に決定を下し、意識はその後で理由を作り出しているだけかもしれない。だとすれば、意識とは一種の幻想であり、それを取り除いても本質的には何も変わらないのではないか。

この思考実験の先にあるのは、めまいがするような虚無である。もし意識が幻想であり、自由意志が錯覚であるならば、人間の尊厳とは何なのか。私たちが「私」と呼んでいるものは、どこまで実在するのか。伊藤計劃は、こうした問いを小説という形式の中で、血の通った登場人物たちに体現させる。それゆえに抽象的な哲学論議が、切実な実存の問題として読者の胸に迫るのである。

生府的なるものの現在性

『ハーモニー』が書かれたのは二〇〇八年である。しかし、その予見性は驚異的だ。作品が描く世界は、私たちの現実と不気味なほど共振している。ウェアラブルデバイスによる健康管理、SNSを通じた相互監視、アルゴリズムによる最適化——テクノロジーは確実に、私たちの身体と精神を管理する方向へと進化している。

新型コロナウイルスのパンデミックは、この傾向をさらに加速させた。感染拡大を防ぐという公衆衛生上の大義のもと、個人の行動は厳しく制限され、健康状態の開示が社会的に要求された。それは必要な措置だったかもしれない。しかし同時に、私たちは『ハーモニー』的な世界への一歩を確実に踏み出したとも言える。

AIによるメンタルヘルスケア、遺伝子編集による疾患の予防、脳神経インターフェースの開発——テクノロジーは人間の苦悩を取り除く可能性を秘めている。そしてその可能性は、間違いなく善意から追求される。誰も苦しまない世界。誰も病まない世界。それは素晴らしい未来のはずだ。しかし伊藤計劃は警告する。その先に待っているのは、人間性の完全な消失かもしれないと。

言葉の実験としての『ハーモニー』

この作品の魅力は、思想的な射程だけにあるのではない。伊藤計劃の文体そのものが、一つの実験である。彼の文章は硬質で、時に冷たく、抽象的な概念を容赦なく読者に突きつける。しかしその中に、ふいに温かな感情が閃く。トァンとミァハ、キアンの三人の少女たちの友情。生き残ることへの罪悪感。失われた親密さへの渇望。

特筆すべきは、作品全体を貫く独特のリズムである。「わたしはわたしを愛している。わたしはわたしを憎んでいる。」といった反復。「〜である」という断定の連続。それは意識の流れというより、プログラムのコードのような印象を与える。人工的で、機械的で、しかし奇妙に詩的である。この文体自体が、人間と機械の境界を揺るがせる装置として機能している。

また、作中で多用される造語も重要である。「生命主義<ライフイズム>」「優しい社会」「リソース」といった言葉は、単なる設定の説明ではない。それらは私たちが普段無批判に使っている概念——生命の尊さ、社会の調和、効率性——を異化し、その暴力性を可視化する。言葉を作り直すことで、思考の枠組みそのものを組み替える。これは真の意味での言語的実験である。

答えのない問いを生きる

『ハーモニー』は、明確な答えを提示しない。物語の結末において、ミァハの計画は遂行される。世界中の人々から意識が消え、完璧な調和が訪れる。しかしトァンだけは、意識を保ったまま生き延びる。彼女は最後の人間として、もはや人間ではない人類の中で、孤独に意識し続ける。

これは救済なのか、それとも呪いなのか。作品は判断を保留する。意識を持つことの価値、苦悩することの意味、人間であることの本質——これらの問いに、伊藤計劃は安易な解答を与えない。ただ問いを、その最も鋭利な形で、読者に手渡すのである。

そして、だからこそこの作品は読まれるべきなのだ。私たちはテクノロジーの発展と、それに伴う人間性の変容という問題から逃れることはできない。AIは日々賢くなり、バイオテクノロジーは生命の根幹に介入し、私たちの意識さえも計算可能な対象になりつつある。この状況下で、『ハーモニー』が提起する問い——人間とは何か、幸福とは何か、生きるとは何か——は、ますます切実なものになっている。

伊藤計劃は三十四歳で死んだ。しかし彼が遺した問いは、死なない。『ハーモニー』は未完の予言であり、私たちはその予言が現実になる過程を、今まさに生きている。この作品を読むことは、単なる娯楽ではない。それは自分自身の存在への、根源的な問いかけに向き合うことである。優しさに満ちた地獄で、あなたは何を選ぶのか。この問いを携えて、ページを開いてほしい。

 

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