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血より濃いもの―『セッション』と『ニュー・シネマ・パラダイス』が教えること

血より濃いもの―『セッション』と『ニュー・シネマ・パラダイス』が教えること

映画において、最も強烈な人間関係は、たいてい血縁の外にある。

師弟。戦友。同志。名前のつけられない関係。それらは「血縁を超えた絆」などと呼ばれることがある。しかしその言い方自体がおかしいのではないか。「超えた」という表現は、血縁が本来の関係であり、それ以外は特別なものだという前提に立っている。本当にそうだろうか。

むしろ逆だ。人間の関係の本質は、応答にある。誰かが何かを発し、誰かがそれを受け取り、応答する。その連鎖の中にこそ関係が生まれる。血縁はその一形態に過ぎない。たまたま遺伝子を共有しているだけで、応答がなければ何も流れない。逆に血縁がなくても、応答があれば、そこにはすべてが流れる。

二本の映画が、このことを証明している。

破壊的な応答 ―『セッション』

デミアン・チャゼル監督の『セッション』(2014)は、ジャズドラマーのニーマンと、鬼教官フレッチャーの関係を描く。この二人の間にあるものを、何と呼べばいいのか。師弟か。虐待か。愛か。どの言葉も正確ではない。

フレッチャーはニーマンを罵倒し、椅子を投げ、人格を否定する。常軌を逸した暴力がそこにある。しかし同時に、フレッチャーはニーマンの中にある何かを認識している。認識しているからこそ、破壊する。凡庸な生徒に椅子は投げない。

ここで注目すべきは、ニーマンには実の父親がいるということだ。ジム・ニーマン。息子を愛し、心配する、善良な父親。しかし映画を観た誰もが感じることがある。ニーマンの人生を根底から規定しているのは父親ではなく、フレッチャーだ。父親との関係は穏やかで安全だが、ニーマンの存在の核には届いていない。フレッチャーとの関係は暴力的で危険だが、ニーマンの存在の核そのものを揺さぶっている。

ラストシーン。フレッチャーの罠にかかり、舞台上で恥をかかされたニーマンが、一度は退場しかけて、戻ってくる。そしてドラムを叩き始める。フレッチャーが指揮を始める。あの瞬間、二人の間に流れているものは、教育でも支配でも復讐でもない。応答だ。純粋な応答。ニーマンが叩き、フレッチャーが応え、その応えにニーマンがさらに応える。

あの場面に、血縁は一切関係がない。そしてそのことを、誰も不思議に思わない。

静かな応答 ―『ニュー・シネマ・パラダイス』

ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)は、映写技師アルフレードと少年トトの関係を描く。シチリアの小さな村。映画館の暗闇。そこで二人の応答が始まる。

アルフレードはトトの中に何かを見た。映画を愛する心。それ以上の何か。しかしアルフレードが偉大なのは、トトの才能を認識したことではない。トトを手放したことだ。

「この村から出ろ。振り返るな。」

アルフレードはトトを自分のもとに留めなかった。自分の人生の一部にしなかった。トトの人生をトトに返した。これは愛の最も困難な形態だ。認識し、応答し、そして手放す。

トトは村を出て、映画監督になる。アルフレードのことを長い間忘れていたわけではないだろう。しかし日常の中で、あの映写室の記憶は遠くなっていく。二人の応答は途切れたように見える。

しかし途切れていなかった。

アルフレードは死後、トトにフィルムを遺す。検閲でカットされたキスシーンを、何十年もかけて一本のフィルムに編集していた。そのフィルムを観て、トトは泣く。あのフィルムの中にあるのは、キスシーンではない。アルフレードの応答だ。トトが村を出た後も、アルフレードは応答し続けていた。みえないところで。

トトの実の父親は、戦争で死んでいる。映画の中で語られるのは、その不在だけだ。しかしアルフレードがいた。血縁のない老人が、トトの人生に決定的なものを残した。そしてそのことを、やはり誰も不思議に思わない。

血縁という幻想

この二本の映画に共通しているのは、最も深い人間関係が血縁の外にあるということだ。しかし重要なのは、どちらの映画も「血縁を超えた」などという大げさな言い方をしていないということだ。フレッチャーとニーマンの関係は師弟であり、アルフレードとトトの関係は年長者と少年の友情であり、それ以上の説明は要らない。

わざわざ「血縁を超えた」と言わなければならないのは、血縁を関係の基準にしているからだ。しかし映画が繰り返し描いてきたのは、血縁など最初から関係ない、ということではなかったか。

師弟関係、バンド、映画のクルー、編集者と作家、教師と生徒。人間が本気で何かを生み出す現場には、必ず応答の連鎖がある。誰かが何かを発し、別の誰かがそれを受け取り、変容させ、また発する。その連鎖の中にいる者同士の関係は、血縁のどんな関係よりも、時に深く、時に激しく、時に美しい。

フレッチャーのように破壊的な応答もある。アルフレードのように静かな応答もある。しかしどちらにも共通しているのは、相手の中にある何かを認識しているということだ。認識し、応答する。その連鎖が関係を作る。血ではなく。

アルフレードが遺したフィルムは、その証明だ。みえないところで、応答は続いていく。発した者が死んでも、受け取った者がいる限り。そしていつか受け取った者もまた、次の誰かに何かを発するだろう。自覚なく。自然に。

それは「血縁を超えた家族」などではない。

ただの関係だ。人間の、最も本質的な関係だ。

 

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