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ウォン・カーウァイ、時間を撮る──『花様年華』『2046』が描いた愛の時制

ウォン・カーウァイ、時間を撮る──『花様年華』『2046』が描いた愛の時制

実現しなかった愛が刻む、永遠の「もうすぐ」

香港の映画監督ウォン・カーウァイほど、時間というものの手触りを映像で表現することに執着した作家はいないだろう。彼の代表作である『花様年華』と『2046』を観るとき、私たちは単に物語を追っているのではない。時間そのものが持つ質感、その粘度、そして取り戻せないものへの渇望を、ほとんど身体的な感覚として経験することになる。

円環する時間──『花様年華』が描いた反復の美学

『花様年華』は1966年の香港を舞台に、隣人同士である新聞編集者チョウ・モウワンと秘書スー・リーチェンが、それぞれの配偶者の不倫を知り、互いに惹かれ合いながらも一線を越えられない姿を描く。この作品でウォン・カーウァイが捉えようとしたのは、愛が成就しない瞬間の連続であり、「もしかしたら」という可能性だけが存在し続ける時間の在り方だった。二人は何度も同じ階段をすれ違い、同じ麺屋で出前を取り、同じように雨の中を歩く。この反復の中で、時間は前に進んでいるようでいて、実は同じ場所を円環するように巡っている。彼らの関係は決して「次の段階」に進まず、永遠に「今まさに始まろうとしている」状態に留まり続ける。

感情の密度が測る時間──直線性の拒否

ウォン・カーウァイの映像が特異なのは、彼が時間を直線的なものとして扱わないからだ。通常、映画における時間は物語の因果律に従って整理される。AがあってBがあり、Cへと展開する。しかし『花様年華』では、時間はむしろ感情の密度によって測られる。スローモーションで捉えられた階段でのすれ違い、チャイナドレスの裾がゆらめく一瞬、視線が交わりそうで交わらない瞬間──これらは物語的には「何も起きていない」場面だが、情動的には最も濃密な時間として提示される。ナット・キング・コールの「夢の中のあなた」やシガー・ロスのワルツが繰り返し流れることで、観客は同じ感情の波に何度も洗われ、時間が反芻されていることを知覚する。

仮定法過去完了の愛──実現の禁止がもたらす宙吊り

この作品で描かれる愛は、本質的に「過去形」でしか語られえない愛である。二人が互いを愛し始めたとき、その愛はすでに実現不可能なものとして刻印されている。なぜなら彼らは「配偶者を裏切った者たちと同じになりたくない」という倫理によって縛られているからだ。つまり、愛することそのものが禁じられているのではなく、愛を行為として実現することが禁じられている。この宙吊りの状態こそが、『花様年華』の時間を特異なものにしている。現在進行形の感情が、常に「あのときこうしていれば」という仮定法過去完了の形でしか表現できない。ラストシーンでチョウがアンコール・ワットの遺跡の穴に秘密を囁き、それを泥で封じる行為は、実現しなかった愛を過去の遺物として埋葬することに他ならない。

三つの時制が重なる墓標──『2046』の入れ子構造

そして『2046』は、この埋葬された愛の墓標の上に建てられた作品だ。1966年から1969年へと時間軸が移り、チョウ・モウワンは今度は自ら2046号室に住み、複数の女性たちと関係を持ちながら、かつてのスー・リーチェンの面影を追い求める。しかしこの作品の革新性は、単なる続編ではなく、時制そのものが多層化している点にある。『2046』というタイトルは劇中でチョウが書く小説のタイトルでもあり、その小説内では2046年という未来が舞台となる。そこは「失われたものを取り戻すことができる場所」として設定され、登場人物たちは過去の記憶を求めて列車に乗る。つまり、1960年代の「現在」、2046年という「未来」、そしてスー・リーチェンとの関係という「過去」という三つの時制が、入れ子構造のように重なり合っているのだ。

代替物の不可能性──記憶という名の幻影

この構造が示唆するのは、愛における時間の不可逆性と、それに抗おうとする人間の欲望である。チョウが出会う女性たち──バイ・リン、ワン・チンウェン、スー・リーチェンの娘──は、みな彼が失ったスー・リーチェンの代替物として機能する。しかし代替物は決して本物にはならない。それどころか、チョウ自身が気づいているように、彼が追い求めているスー・リーチェンさえも、実はすでに記憶の中で理想化され変質した幻影に過ぎない。2046年という未来において「失われたものを取り戻せる」という設定は、したがって残酷な皮肉として機能する。なぜなら取り戻されるものは、失われたそのものではなく、失われたものについての記憶、つまりすでに変容してしまった何かでしかないからだ。

スローモーションという抵抗──瞬間を永続化する試み

ウォン・カーウァイの映像スタイルは、この時間的複雑性を視覚化する装置として機能している。彼の映画に特徴的な暗く濃密な色彩、極端なクローズアップ、手持ちカメラの不安定な動き、そして何よりもスローモーションの多用は、単なる美的選択ではない。それらは時間を引き延ばし、瞬間を永続化しようとする試みである。特に『2046』では、木村拓哉演じる日本人のタク、そしてコン・リー演じる謎の女性との場面において、極端なまでのスローモーションが用いられる。人物たちの動きは蜜のようにゆっくりとなり、観客は一つの動作、一つの表情の変化に異様なまでの時間的重量を感じることになる。これは監督が、愛の瞬間を永遠に引き延ばそうとする、あるいは過ぎ去る時間に抵抗しようとする意志の表現と読める。

遅延の美学──感情の非同期性が生む悲劇

さらに興味深いのは、両作品における「遅延」の美学である。『花様年華』でチョウとスーが互いの愛を確信しながらも決して言葉にしないように、『2046』でもまた、感情の表出は常に遅れてやってくる。チョウがバイ・リンの愛に気づくのは、彼女が去った後だ。ワン・チンウェンの父親への想いを理解するのも、彼女が部屋を出て行った後だ。この「理解の遅延」は、人間の感情が時間に対して常に非同期的であることを示している。私たちは自分が何を感じているのか、相手が何を感じているのかを、常にリアルタイムでは把握できない。感情は事後的に、回想として、あるいは喪失として初めて明瞭になる。ウォン・カーウァイが描く愛は、したがって常に「取り返しのつかなくなった後」にのみ認識される愛なのだ。

忘却の不可能性──不完全な記憶の呪縛

この時間的ずれは、両作品に共通する「もう一度会えるか」という問いに集約される。『花様年華』でチョウとスーは「もう一度会いましょうか」と約束しながら、その約束は守られない。『2046』の小説内では、登場人物たちは「誰かを忘れるのにどれくらい時間がかかるか」という問いに直面する。答えは示されないが、作品全体が示唆するのは、人は決して誰かを完全に忘れることはできず、同時に決して完全に思い出すこともできないという真実だ。記憶は常に不完全で、歪んでおり、それゆえに私たちを苦しめ続ける。

主観的時間の映像化

ウォン・カーウァイが『花様年華』と『2046』で達成したのは、時間の現象学的表現とでも呼ぶべきものだ。哲学者ベルクソンが「持続」という概念で示したように、私たちが実際に経験する時間は、時計が刻む均質な時間ではなく、感情や記憶によって伸縮する主観的な時間である。恋に落ちる瞬間は永遠のように長く、幸福な時間は瞬く間に過ぎ去る。ウォン・カーウァイの映画は、この主観的時間を映像の質感として具現化している。彼のカメラは、愛する者たちが共有する時間が、世界の他の部分とは異なる速度で流れていることを捉える。

「今」における愛の不在──時間的現象としての愛

そしてこの二つの作品が最終的に提示するのは、愛とは本質的に時間的な現象であるという認識だ。愛は「今ここ」で完結するものではなく、過去の記憶と未来の期待との間で常に揺れ動いている。私たちは過去に愛した誰かの記憶を引きずり、未来に再会できるかもしれないという希望に生きる。しかし「今」という瞬間において、愛は常に不在である。チョウとスーが1966年の香港で経験したのは、まさにこの「今における愛の不在」だった。そして『2046』でチョウが複数の女性たちと過ごす時間は、その不在を埋めようとする不毛な試みの連続なのだ。

止められない時間への抵抗──逆説としてのスローモーション

ウォン・カーウァイの映画を観終わったとき、私たちに残るのは物語の顛末ではなく、時間が過ぎ去ることへの深い悲しみだ。彼の映画は、美しい瞬間が二度と戻らないことを知りながら、それでもその瞬間を永遠に引き延ばそうとする。スローモーションは時間を止める魔法ではなく、むしろ時間が止められないことを強調する技法である。引き延ばされればされるほど、瞬間はやがて終わることが明確になる。この逆説こそが、ウォン・カーウァイ映画の核心にある悲劇性だ。

時間の隙間に宿る愛──起こらなかった出来事の記憶

『花様年華』のラストで泥に封じられた秘密は、おそらく「愛している」という言葉だったのだろう。しかしその言葉は決して発せられることなく、遺跡の穴の中に永遠に閉じ込められた。『2046』で列車が向かう未来の都市では、失われたものを取り戻せるはずだった。しかし本当は、失われたものは最初から存在していなかったのかもしれない。それは「もしも」という仮定の中にしか存在しない、起こらなかった出来事の記憶なのだから。

ウォン・カーウァイが撮ったのは、愛そのものではなく、愛が存在したかもしれない時間の隙間だった。彼のカメラは、すれ違う二人の間の空間、言葉になる直前の沈黙、触れそうで触れない手の距離を執拗に捉える。そこにこそ、彼が描こうとした愛の本質がある。実現した愛ではなく、実現しなかった愛。過去でも未来でもなく、永遠に「もうすぐ」という時制に留まり続ける愛。それは最も美しく、最も残酷な愛の形なのだ。

 

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