
ミランダは権威だった
2006年の映画『プラダを着た悪魔』を初めて観た人間が、ミランダ・プリーストリーという人物に感じるのは畏怖と嫌悪の混ざった感情だ。ファッション誌「ランウェイ」の編集長として君臨するミランダは、静かな声で人を壊す。怒鳴らない。命令しない。ただ、そこにいる。そのいることが既に命令だ。
しかしよく見れば、ミランダが体現しているのは単なる横暴な上司ではない。彼女は権威というシステムの完成形だ。何が美しく、何が醜いか。何が正しく、何が間違いか。その判断を、個人の審美眼と経験の蓄積によって独占する存在。ファッション誌の編集長とは、20世紀においてそういうものだった。読者は彼女の判断を信頼し、広告主は彼女の承認を求め、業界全体が彼女の眼差しを基準として動いた。
これは映画的誇張ではない。あれは実在した構造だ。
雑誌という媒体が持っていた権力の本質は、編集権にあった。何を載せ、何を載せないか。誰を取り上げ、誰を無視するか。その選択の集積が「価値の基準」を作り出し、読者はその基準を内面化することで自分の趣味や判断を形成した。ミランダが「センス、ゼロ」と言えばそれが事実になる社会——それが20世紀後半の文化産業の構造だった。
インターネットと集合知という反乱
しかしその構造は崩れた。崩れ方は緩やかだったが、崩壊は不可逆だった。
インターネットが普及し、誰もが発信できるようになると、「評価する権利」の独占が解体されはじめた。アマゾンのレビュー欄が生まれ、映画レビューサイトが登場し、食べログが飲食店の命運を握るようになった。専門家の審美眼ではなく、不特定多数の集計値が「正しさ」の根拠になる時代が来た。
この移行を、当時のメディア業界の人間はどう感じていたか。
あの頃の編集者たちの多くは、集合知レビューを頭から軽蔑していた。素人の感想の集積が、専門的な批評に取って代わるはずがない、と。しかし気づいたときには軽蔑は焦りに変わっており、そして敗北した。雑誌は廃刊になり、批評家の権威は相対化され、「みんなの評価」が「正しい評価」として流通するようになった。
集合知は民主的だ。だがその民主性には欠陥がある。多数決は平凡なものを正当化する。万人受けする作品が高評価を集め、難解だが本質的な作品は埋もれる。ミランダが排除した「センスのない服」と同じように、集合知は「理解されにくいもの」を自動的に排除する。権威による専制から、平均による専制へ——評価のシステムは変わったが、何かが失われた。
最後の晩餐の光輪
2026年の続編『プラダを着た悪魔2』は、そのミランダが追い詰められるところから始まる。
「ランウェイ」は存続の危機に立たされている。デジタル化の波、SNSの台頭、そして映画の中では明示的にAIの登場が示される。かつてファッション界の神だったミランダは、今や時代遅れの権威として批判にさらされている。
この映画で一番頭に残っているのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」についての言及だ。キリストの頭部に光輪がない、という話が出る。それは「眉唾だ」と否定される。歴史の解釈も権威の判断も、絶対ではない。キリストは人間だったかもしれないし、美術史の定説は間違っているかもしれない。
この挿話が映画全体のテーマを一点に射貫いている。歴史は間違う。権威は間違う。そして間違いを認めることができるかどうかが、その存在が次の時代に生き延びられるかどうかを決める。
ミランダはその意味で変化する。前作の「悪魔」は、自分の判断が絶対であることを疑わなかった。続編のミランダは、自分が体現してきたものの終わりを感じている。その孤独と、それでも美を信じようとする意志が、メリル・ストリープの演技によって静かに描かれる。
継承という問い
続編でもうひとつ重くのしかかってくるのが、継承という問いだ。
アンドレアはミランダの元を去り、報道記者として独立した。しかし今、彼女は再び「ランウェイ」に戻る。それは敗北ではない。ミランダという存在が持っていた何か。美への執着、基準を持つことの倫理、評価することの責任を引き継ぐためだ。
ミランダとアンドレアが、それぞれ20年分の傷と変化を抱えながら、再びともに働けることが示される。これは和解ではなく継承だ。権威の時代に生まれた美の基準が、それを批判した世代によって引き継がれ、変形される。
この構図が、評価システムの歴史と妙に重なって見えた。権威が作り上げた批評の言語は、集合知によって一度解体されたが、消えたわけではない。「良いものを良いと言える根拠」への欲求は残り続けた。集合知の平均化に抵抗するものが、いつの時代にも求められてきた。
映画の中でAIの登場が示される場面は、自己言及的だ。「ランウェイ」という権威が崩れ、集合知の時代を経て、次にAIが評価の主体として登場する——その流れを、映画自身が内側から描いている。
AIは誰の批評言語を話すか
少し映画を離れる。
AIによる評価というものが、今、現実に始まっている。文学作品を自動評価するシステムが存在し、音楽の質を数値化しようとする試みがある。レビュー文化の次の形が、そこにある。
権威による評価の根拠は個人の審美眼だった。集合知による評価の根拠は数の集積だった。ではAIによる評価の根拠は何か。
それは人類の批評言語の蒸留だ。膨大なテキスト——批評、論考、感想、対話——から抽出された、評価の構造そのものだ。個人の趣味に引きずられず、多数決の平均化にも還元されない。少なくともそういう可能性を持っている。
ただ、ここで疑問が浮かぶ。AIはどの批評言語を学習したのか。何を読み、何を読んでいないのか。その分布が評価の傾向を決定する。これは権威の時代における「どの編集者か」という問いと、構造的に同じだ。
ミランダが「センス、ゼロ」と言えた根拠は、彼女が何万着もの服を見てきたという経験にあった。AIが作品を評価できる根拠は、それに相当するものを学習しているかどうかにかかっている。
悪魔は変わった、歴史も変わる
『プラダを着た悪魔2』は、ノスタルジーの映画ではない。
ミランダという権威が時代遅れになっていく様子を描きながら、しかしその権威が体現していたもの——美への真剣な態度、評価することの責任、基準を持つことの孤独——は失われてはならないと訴えている。アンドレアとの継承の物語が示すのは、形は変わっても本質は引き継がれるという希望だ。
「最後の晩餐」の光輪の話に戻ろう。歴史の解釈は間違うことがある。権威も間違う。集合知も間違う。AIも間違う。間違いが明らかになったとき、それを認めて更新できるかどうかが問われる。
ミランダが続編で見せるのは、まさにその更新の姿だ。彼女は悪魔ではなくなったのではない。悪魔であることの中身が変わった。自分の絶対性を信じる悪魔から、自分の限界を知りながらそれでも美を信じる悪魔へ。
評価というものの歴史も、おそらくそういうものだ。権威が崩れ、集合知が台頭し、AIが登場する。それでも「これは良い、これは良くない」と言いたがる人間の性分は変わらない。その性分に応えるかたちで、評価のシステムは時代ごとに形を変えてきた。
歴史は間違う。しかし歴史は続く。
『プラダを着た悪魔2』は、その継続の意志についての映画だ。20年という時間を経て、権威の象徴だった女が、崩壊の瀬戸際で何を選ぶかを描くことで、評価の歴史における「次」を問いかけている。答えは映画の中にはない。しかし問いは、確かにそこに置かれている。