
沈んだ海底都市の風景を見たかった。
それをプロンプトに書き込んだ。Sora2は応え、数秒後に冷たく静かな都市の残像を生成した。
けれど、それは想像していた「海底都市」ではなかった。
そこには僕の意図や感情が欠けていた——ただの、よくできた幻の断片だった。
だが数日後、同じような海底都市の映像が世界中で生成され、共有されているのを見た。
それらは少しずつ違う。光の色、沈む角度、泡の密度。
いつのまにか、ひとりの想像だったはずのイメージが、無数の他者によって変奏されていった。
Sora2は、現実を映す装置ではなく、幻を共に見るための装置なのだ。
想像が流通する時代
かつてのSNSは「現実の共有」だった。
YouTubeは撮ったものを見せ、Instagramは撮りたい瞬間を整えた。
しかしSora2のようなAI映像SNSが生み出しているのは、“現実では存在しない瞬間”の可視化だ。
記録ではなく、想像が流通する。
人々は、現実の中で撮るのではなく、頭の中に浮かんだ光景を「生成する」。
それを他者と共有し、コメントし、また別の誰かが再生成していく。
こうしてSora2のタイムラインは、誰も見たことのない夢の断片で満たされていく。
SNSの本質が「情報」から「幻視」へと移りつつある。
ここでは、言葉が映像を生み、映像が次の言葉を呼ぶ。
AIは、もはや「道具」ではなく、想像を媒介する存在として動き始めている。
試行錯誤が“共有される”という現象
興味深いのは、生成された映像よりも、
それを作るまでの試行錯誤こそがコンテンツ化している点だ。
「どんなプロンプトで」「どのようなニュアンスを足せば」
理想のイメージに近づくか。
その過程が投稿され、拡散し、再編集されていく。
ここで共有されているのは「映像」ではなく、「探すプロセス」だ。
つまりSora2は、完成された作品を並べる場所ではなく、
“創造の途中”が可視化されるプラットフォームなのだ。
それは、いわばAI時代の「習作共有SNS」。
映像作家やアーティストが最終成果を発表するのではなく、
「まだ誰にも見せられない途中経過」をAIと共に公開しているような空間。
生成AIが民主化した結果、創作の行為そのものがコンテンツになった。
「失敗」や「不完全さ」も、いまや拡散可能な価値を持つ。
AIは創造しない——人間の問いが、AIを動かす
AIは映像を作らない。
それが「何を意味するのか」「なぜそれを見たいのか」を問うのは、常に人間の側だ。
AIが応答するのは、人間の問いの深さに比例する。
浅いプロンプトは浅い映像を返す。
だが、「沈んだ都市を見たい」と願う人間が、
そこにどんな喪失や祈りを込めるかによって、AIの出力は変わる。
AIとは、創造の源ではなく問いの鏡だ。
だからこそ、Sora2のような空間で求められるのは“完成された技術”ではなく、
“深く投げかけられた問い”なのだ。
「どんな映像を作りたいか?」という質問は、
そのまま「何を見たいと思っているのか」という自己への問いでもある。
AIはその問いを受け取り、無限に変奏し続ける。
幻を共有する社会へ
Sora2のタイムラインを眺めていると、
誰も見たことのない都市、風景、神話、夢が流れてくる。
それらは現実の再現ではなく、共有された幻視だ。
この「幻の共有」こそが、AI映像SNSの本質だ。
誰かが描いた幻想が、別の誰かの想像を刺激し、
また別のビジョンとして再生成される。
その連鎖が、文化的な“夢の地層”を作っていく。
人間は今、現実を共有するのではなく、想像を共有する段階に来ている。
それは危ういが、同時に豊かな可能性でもある。
私たちはAIによって、「夢の共同制作」を始めたのかもしれない。
結論——AIは鏡であり、観測者は人間だ
Sora2はまだ、映画やアート作品を完成させる装置ではない。
それは、幻を映し出し、人々の想像を反響させる鏡だ。
そこに映るのは、AIではなく、AIを通して浮かび上がる「私たちの無意識」だ。
AIの未来は、AIそのものの進化ではなく、
私たちがどんな問いを投げかけるかにかかっている。
何を見たいか。何を信じたいか。
AIはそれをただ、静かに映し出す。
Sora2が示すのは、AIの“創造”ではなく、
人間が問いを取り戻すための新しいメディアの姿である。