
山口一郎はずっと80年代を引きずってきた。
シンセの音色、ニューウェーブの残響、ダンスミュージックの皮膚感覚。サカナクションの音楽にはつねに、すでに終わった時代の匂いが混じっている。私はそれを、批評的な文脈で「退行」と呼んできた。過去に帰還することへの、ある種の疑問符として。なぜ前に進める人間が、繰り返し後ろを向くのか、と。
しかし「いらない」のMVを見て、少し考えが変わった。それどころか、自分がこれまで使ってきた「退行」という言葉の粗さに気づかされた。
ネオンが照らす部屋。女性との逢瀬。それはまぎれもなく80年代的なロマンの図像だ。バブル前夜の都市の艶、夜の密度、男女の緊張感——そういうものがMVには充満している。そして山口は歌う、「いらない」と。
この否定形が、すべてを反転させる。
「いらない」と言える対象は、本当に不要なものではない。完全に不要なら、言葉にすら値しない。「いらない」と口にしなければならない時、人はすでにそれを必要としている。否定は欲望の裏地だ。拒絶の言葉は、執着の告白だ。
つまりこの曲は構造的に、愛の歌である。女性に向けた、過去に向けた、もう戻れない時間に向けた。
シティポップという外側の消費と、山口の内側の渇望
ここで少し視野を広げる必要がある。
2010年代後半から2020年代にかけて、シティポップという言葉が世界規模で再評価された。竹内まりや、山下達郎、角松敏生——80年代日本のアーバンポップが、YouTubeのアルゴリズムと海外リスナーの耳を経由して突然「発見」された。その現象は、日本国内でも逆輸入的な形でシティポップブームを生んだ。
しかしこのブームの本質を考えると、ある奇妙な構造が見えてくる。シティポップ再評価の中心にいたのは、その時代を生きていない人々だった。海外の若いリスナー、あるいは日本でもリアルタイムで80年代を知らない世代。彼らにとって80年代日本の音楽は、ノスタルジーではなくエキゾチシズムだ。失われた時間への郷愁ではなく、自分が属したことのない世界への憧憬。それは消費としての過去であり、美学としての80年代だ。
山口一郎の80年代回帰は、この文脈で語られることが多かった。サカナクションのシンセポップ的な音楽性は、シティポップ再評価の波と並走するように見えた。あるいは意識的にその文脈を参照しているとも読めた。だから私は「退行」という言葉を使った。時代の空気を読んだ美学的選択として、過去への回帰を捉えていたからだ。
しかし「いらない」のMVを見て思ったのは、山口の80年代はそういう外側の消費とはまったく異なる場所にある、ということだ。
シティポップ再評価における80年代は、記号として消費される過去だ。ノスタルジーの感触を持たない人間が、ノスタルジーの形式を享受する。それは過去との距離を前提とした消費であり、根本的に軽い。失っていないものを惜しむことはできないからだ。
対して山口一郎が召喚する80年代は、もっと重く、もっと個人的だ。「いらない」のMVが提示する図像——ネオン、女、夜の部屋——はシティポップの美学的記号としても読めるが、それだけではない。そこには時間の質感がある。過去を本当に生きた人間だけが持つ、記憶の手触りがある。
山口一郎は1980年生まれだ。80年代を子供として生きた人間が、その時代の音と映像を召喚するとき、それはエキゾチシズムではありえない。それはノスタルジーだ。正確には、帰還不能な時間への渇望だ。
ノスタルジーという病の名前
ノスタルジーはもともと医学用語だった。17世紀のスイスの医師ヨハネス・ホーファーが命名した、故郷への病的な渇望を指す言葉。兵士たちが戦地で故郷を恋しがるあまり身体を壊す症状に、彼は「nostalgia」という名を与えた。ギリシャ語のnostos(帰還)とalgos(痛み)の合成語だ。
帰還への痛み。それがノスタルジーの原義だ。
山口一郎の80年代回帰を、私はこの意味で捉え直したい。それは美学的選択でも、時代への退行でもなく、帰還不能な場所への痛みだ。子供だった時間、まだ何も失っていなかった時間、夜が今よりずっと長かった時間——そこへの渇望が、シンセの音に、ネオンの映像に、形を借りて現れる。
「いらない」という歌詞は、だからこそ意味深だ。
過去はいらない。あの時間はもう必要ない。そう言い続けることが、実は過去を必要としていることの唯一の表現方法になっている。直接「あの頃が恋しい」とは言えない。それはあまりにも無防備で、あまりにも傷を晒しすぎる。だから否定形で歌う。「いらない」と言いながら、その言葉の重さで、どれほど必要としているかを伝える。
これは山口が女性に向けて歌っているのと同じ構造だ。MVの中の女性との逢瀬、その緊張と親密さ、そして「いらない」という言葉——女性をいらないと言える男は、その女性をひどく必要としている。愛の否定形は愛の最も正直な形かもしれない。
退行から愛着へ——批評の更新
私がこれまで「退行」と呼んできたものを、今は「愛着」と呼び直したい。
退行は前進できるのに後退することを指す。それは選択の問題だ。しかし愛着は選択ではない。それは身体に刻まれた引力だ。人は愛着のある場所に、意志とは無関係に引き寄せられる。山口一郎が80年代の音と映像を繰り返し召喚するとき、そこには意志的な美学的選択よりも、もっと深いところにある引力が働いているのだと、「いらない」は教えてくれた。
シティポップ再評価という現象が示したのは、過去の音楽が現在において記号として流通する可能性だ。それは過去を軽くする。消費可能にする。失っていない人間でも享受できるものにする。
しかし山口一郎の音楽は、その軽さとは無縁だ。彼の80年代は重い。個人的だ。失われた時間の具体的な痛みを帯びている。だからこそシティポップブームの中でサカナクションを語ることには、どこか違和感があった。文脈は似ているが、質量がまるで違う。
「いらない」はその違いを、MVという形で可視化した。ネオンの部屋で女を必要としながら「いらない」と歌う男の姿は、過去を必要としながら「退行だ」と自分に言い聞かせてきた批評家の姿と、どこか重なる。
山口一郎はずっと正直だったのかもしれない。私の言葉が粗かっただけで。
「いらない」というタイトルは、だからこそ正確だ。過去はいらない——そう言い続けることでしか、過去を必要としていることを表現できない人間の、これは歌だ。そしてその歌を、歳を重ねた山口一郎が今歌っているという事実が、すべてに時間の重みを与えている。
私がそれに気づくのに、このMVまでかかった。