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「竜とそばかすの姫」再考──現代の野獣とは誰か

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美女と野獣の再解釈

2021年に公開された細田守監督作品「竜とそばかすの姫」は、ディズニー映画でも知られる「美女と野獣」を現代に翻案した作品である。高知の田舎に暮らす女子高生・すずが、仮想空間「U」の中で歌姫ベルとなり、謎の存在・竜と出会う。物語の骨格は原典を踏襲しているが、細田がこの作品で試みたのは、単なるラブロマンスの再話ではなかった。

この作品で細田は、根本的な問いを投げかけている。現代において「野獣」とは誰なのか、という問いだ。

原典における野獣は、呪いによって醜い姿に変えられた王子である。彼は城に閉じこもり、人々から恐れられる存在だった。しかしベルの愛によって呪いは解け、野獣は本来の姿を取り戻す。これは変身譚であり、愛の救済の物語である。

だが細田は、この構造をそのまま現代に持ち込むことをしなかった。「竜とそばかすの姫」における竜の正体は、虐待を受けている子どもだったのである。

野獣とは負の連鎖の犠牲者である

ここに細田守の批評的感性がある。現代社会における「野獣」とは、呪いをかけられた王子などではない。それは、暴力の連鎖の中で傷つき、社会から疎外され、自らも攻撃的にならざるを得なかった者たちである。

竜の正体である恵は、父親から日常的に暴力を受けている。彼は仮想空間「U」の中でだけ、その怒りと悲しみを解放することができる。竜という獰猛なアバターは、彼の内面の叫びそのものだ。人々は竜を恐れ、排除しようとする。しかしその攻撃性の背後には、誰にも助けを求められない子どもの絶望がある。

虐待は連鎖する。心理学では「世代間連鎖」と呼ばれる現象が知られており、幼少期に暴力を受けた者が、大人になって同様の行為を繰り返すリスクは著しく高まる。暴力を受けて育った子どもは、暴力を「普通」のことだと認識してしまう。その認識が、連鎖を生む土壌となる。

細田が描いた竜=恵は、まさにこの連鎖の渦中にいる存在だ。彼は被害者であると同時に、放置されれば将来の加害者となりうる。野獣とは、社会が生み出し、社会が見て見ぬふりをしてきた存在なのである。この視点の鋭さは、「美女と野獣」という古典を現代に甦らせる試みとして、きわめて正当なものだったと言える。

圧倒的な「ベル」の表現

この作品の達成として、まず挙げるべきは主人公すず=ベルの表現である。細田は歌手の中村佳穂をすず役に起用し、彼女の歌声を作品の核に据えた。

仮想空間「U」の中で、すずはベルとして歌う。現実世界では母の死をきっかけに歌えなくなっていた彼女が、匿名の仮想空間で再び声を取り戻す。中村佳穂の歌唱は圧倒的で、映画館で体験したその音響は、観客の身体を直接揺さぶるものだった。

細田守は、アニメーションにおける音楽の力を熟知している。「サマーウォーズ」での夏の高揚、「おおかみこどもの雨と雪」での静謐な叙情。しかし「竜とそばかすの姫」における中村佳穂の歌唱は、それらを超える強度を持っていた。ベルというキャラクターは、声によって完全に命を吹き込まれていた。

この「ベル」の完成度が高かったからこそ、作品のもう一方の軸である「竜」の描写との落差が際立つことになった。

示せたが、届ききらなかった物語

「竜とそばかすの姫」は公開時、賛否が分かれた。批判の多くは、物語の終盤に向けられていた。

すずは竜の正体を突き止め、虐待を受けている恵のもとへ向かう。ネット上の仲間たちの協力を得て、高知から遠く離れた場所にいる恵に会いに行く。そしてすずは、恵とその弟を抱きしめる。この直接的な介入によって、物語は一応の決着を見る。

しかし、この解決に対しては疑問の声が多かった。見知らぬ女子高生が一人で虐待家庭に乗り込むことの危険性、専門機関を介さない解決の安易さ、そして何より、虐待という深刻な問題がこのような形で「解決」されうるのかという根本的な問い。

細田が提示した問題意識は正しかった。現代の野獣が負の連鎖の犠牲者であるという洞察は鋭く、そこに切り込もうとした姿勢は評価されるべきだ。だが作品は、その問題を十全に描ききるには、あまりにも多くの要素を抱え込んでいた。

仮想空間「U」の壮大な世界観、すず自身の母の死をめぐるトラウマ、高知の田舎の共同体、そして虐待という社会問題。これらすべてを一本の映画に収めようとした結果、最も重要であるはずの「竜」の内面が十分に掘り下げられないまま、物語は駆け足で終着点へ向かってしまった。

ベルの歌声に心を揺さぶられた観客は多かったはずだ。だが竜=恵の痛みに、同じだけの強度で触れられた観客がどれほどいただろうか。作品は問題を「示す」ことには成功したが、それを観客の心に「届ける」ところまでは至らなかったのではないか。

「サマーウォーズ」から「果てしなきスカーレット」へ

細田守の作家的変遷を振り返ると、「竜とそばかすの姫」の位置づけがより明確になる。

2009年の「サマーウォーズ」は、仮想空間を舞台にしながらも、最終的には大家族の絆によって世界が救われる物語だった。そこには明確な善悪があり、皆が力を合わせて危機を乗り越えるという大団円があった。この作品は細田守の代表作となり、彼の名を広く知らしめた。

しかし「竜とそばかすの姫」では、そのような単純な構図は成立しない。竜は倒すべき敵ではなく、救われるべき存在である。しかも、その救済は一人の少女の献身によって簡単に達成されるものではない。作品は問題の複雑さを示しながら、その複雑さに見合った解決を提示することができなかった。

この未消化の主題は、2025年公開の最新作「果てしなきスカーレット」へと引き継がれている。「果てしなきスカーレット」は、父を殺した叔父への復讐に囚われた王女スカーレットが、死者の国で現代からやってきた看護師の青年・聖と出会う物語だ。復讐という暴力の連鎖と、それを断ち切る「ケア」の可能性。「竜とそばかすの姫」で十分に展開しきれなかったテーマが、新たな形で再び取り上げられている。

細田守は、「サマーウォーズ」的な善悪の明快な世界から、より複雑で曖昧な領域へと踏み込もうとしている。暴力の連鎖は、単純な愛や絆では断ち切れない。「竜とそばかすの姫」はその困難を示し、「果てしなきスカーレット」はその先を模索する。これは作家としての深化と呼ぶべきものだろう。

現代に野獣を描くということ

「竜とそばかすの姫」は、完璧な作品ではなかった。しかし、その不完全さは、細田守が安易な解決を拒否し、困難な問題に正面から取り組もうとした証でもある。

現代における野獣とは、負の連鎖の犠牲者である。彼らは恐れられ、排除され、しかしその攻撃性の背後には深い傷がある。この認識を作品の核に据えたこと自体が、「美女と野獣」という物語の現代的再解釈として、きわめて誠実な試みだった。

中村佳穂の歌声は、今なお記憶に残る。そしてあの歌声が届こうとしていた先にいた「竜」たちのことを、私たちは忘れるべきではない。

 

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