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Radiohead ベストアルバム5選──音楽史を裏切り続ける完全犯罪の軌跡

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Radioheadを語ることは、ロックが自殺し、蘇生し、変身を遂げ続ける瞬間を目撃することだ。彼らは単にアルバムを作ったのではない——時代の神経を直接配線し直し、リスナーの認知構造そのものを書き換えてきた。ここに挙げる5枚は、それぞれが音楽史における「犯行現場」であり、今もなお我々の聴取体験を支配し続けている。

1. OK Computer (1997) ——予言者たちの冷笑

このアルバムが真に恐ろしいのは、9.11も、リーマンショックも、パンデミックも経験していない1997年の段階で、21世紀の絶望を完璧に設計図化していた点だ。「Paranoid Android」の6分33秒は、ただの楽曲ではない——これは現代人の精神構造の解剖学的スケッチである。3つのパートに分割された楽曲構成は、まさに分裂した現代的主体そのものを音響化している。

「Exit Music (For a Film)」の終盤で轟く電子音の壁は、個人の内面世界が外部の暴力によって粉砕される瞬間を音響的に再現している。トム・ヨークが「Fitter Happier」で機械音声に語らせた自己啓発的スローガンの数々は、今やSNSのインフルエンサー文化そのものではないか。この楽曲を2020年代に聴き返すとき、我々は慄然とする——彼らは「いいね!」文化を20年前に完全に予見していたのだ。

2. Kid A (2000) ——ロックの葬式を音楽にした男たち

ここで彼らが行ったのは、ギターという楽器の「殺害」だった。しかし暴力的ではなく、むしろ愛情を込めた安楽死として。「Everything In Its Right Place」の冒頭、サンプリングされたピアノの断片が無限に反復される瞬間、我々は新しい音楽的現実に引きずり込まれる。これは単なる楽器の音ではなく、記憶の破片、時間の断裂である。

「Idioteque」のリズムパターンは、ポール・ランスキーの電子音楽作品からのサンプリングだが、重要なのはその引用の仕方だ。彼らは現代音楽の成果を「盗用」したのではなく、ポップミュージックの文脈に「移植」した。「How to Disappear Completely」でのオンドゥマルトノの使用は、人間の声帯を電子的に拡張する実験であり、歌声と楽器音の境界を無効化している。

3. In Rainbows (2007) ——資本主義に対する最も美しい犯罪

「Pay What You Want」という配信戦略は、単なる話題作りではなかった。これは音楽の「交換価値」と「使用価値」を根本から問い直す哲学的実験だった。アルバムタイトルの「虹」は、プリズムが白光を分解するように、音楽産業の構造を可視化する隠喩として機能している。

「15 Step」の変拍子(5/8)から始まる構成が絶妙だ。リスナーは最初の15歩で既に平衡感覚を失い、アルバム全体を通じて浮遊感の中を漂うことになる。「Weird Fishes/Arpeggi」でのギターアルペジオの重層的な絡み合いは、まるで水中を泳ぐ魚の群れのように有機的で流動的だ。これは2000年代のデジタル・ハードコアの攻撃性に対する、優雅な抵抗として機能している。

「Videotape」の終曲は、死後の世界からの録画映像という設定だが、実際には生前の記憶を死後に再生する装置としてのビデオテープの隠喩である——つまり、アルバム自体が我々の記憶に刻まれる「遺言」なのだ。

4. The Bends (1995) ——ブリットポップの偽善を暴いた密告者たち

オアシス、ブラー、パルプが「クール・ブリタニア」を歌い上げていた1995年、Radioheadだけは英国の暗部を凝視していた。「Fake Plastic Trees」のアコースティックギターから立ち上がる憂鬱は、サッチャリズム後遺症としての情緒的砂漠化を表現している。トム・ヨークのファルセットが人工的な脆さを醸し出す——これは90年代前半の「本物志向」に対する痛烈な皮肉だった。

「Just」のリフは表面的にはオルタナティブロックの文法に従っているが、その反復の仕方は強迫的で病的だ。これはグランジの「怒り」とも、ブリットポップの「高揚」とも異質な、第三の感情——「諦念」を音楽化したものである。「Street Spirit (Fade Out)」の終結部で響くギターの残響は、まるで魂が肉体から離脱していく瞬間の音響的記録のようだ。

5. The King of Limbs (2011) ——リズムという原始宗教への回帰

最も過小評価されているこのアルバムで、彼らはついに西洋音楽の根幹である「拍子」概念を解体した。「Bloom」での複数のリズムパターンの同時進行は、熱帯雨林の生態系のように複雑で有機的だ。フィル・セルウェイのドラムは、もはや楽曲の「土台」ではなく、楽曲そのものを生成する「母胎」として機能している。

「Lotus Flower」のライブ映像でのトム・ヨークの異様な踊りは、単なるパフォーマンスではない。あれは西洋的身体性からの離脱であり、音楽に身体を「明け渡す」儀式的行為である。「Give Up The Ghost」でのアコースティックギターのループは、死者の霊を呼び寄せるシャーマニックな呪文のように反復される。彼らのアフリカンリズムへの接近は、ワールドミュージック的な「借用」ではなく、むしろグローバル化の暴力に対する身体的抵抗として機能している。

結論:永続革命としてのRadiohead

この5枚を通じて見えてくるのは、Radioheadが決して「進歩」や「発展」を目指していないということだ。彼らは常に「裏切り」を続けている——ファンの期待を、音楽産業の論理を、そして自分たち自身の過去を。The Bendsで示した叙情性をOK Computerで機械的冷酷さに変換し、Kid Aでロック的身体性を完全に放棄し、In Rainbowsで人間的温もりに回帰したかと思えば、The King of Limbsで再び抽象的実験に突入する。

この継続的な自己破壊こそが、彼らを同時代の他のどのバンドとも区別する本質的特徴なのである。我々がRadioheadを聴くとき、我々は単に「良い音楽」を消費しているのではない。我々は資本主義、テクノロジー、近代性そのものとの闘争に参加している。これらのアルバムは、その闘争の最前線からの戦場報告書なのだ。そして最も重要なことは、この戦争は今もなお継続中だということである。

 

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