
まず、正直に言う
公開初日の満足度ランキングで1位を獲得し、Filmarksで4.2点という高評価を叩き出したこの映画を、「面白かった」の一言で終わらせるのはもったいない。面白いのは当然として——この映画が本当に何を描いたのか、そして何を描かなかったのかを、きちんと問いたい。
映画の構造について
監督は『スパイダーマン:スパイダーバース』シリーズのフィル・ロード&クリストファー・ミラー、脚本は『オデッセイ』も手がけたドリュー・ゴダード、撮影は『DUNE』のグレイグ・フレイザーという布陣だ。これだけのクリエイターが揃った意味は、スクリーンを観れば一目瞭然になる。
フレイザーの撮影は宇宙の暗闇を説得力のある質量として捉えている。グリーンスクリーンではなくLED背景を用いることで、感情的にも物理的にもリアルな映像を作り上げ た結果、主人公グレースの孤立感は抽象的な設定としてではなく、身体的な重さとして観客に届く。
ライアン・ゴズリングが演じる主人公グレースは、冒頭、記憶喪失の状態でたった一人目覚め、そこから徐々に自分がなぜ宇宙船の中にいるのかを思い出していく。この構造は映画的に非常に巧みだ。観客はグレースとともに状況を把握し、グレースとともに驚き、グレースとともに考える。ゴズリングはこの「ひとりで考え続ける男」を、ユーモアと脆さの間で絶妙に演じている。彼なしにこの映画は成立しなかった。
ロッキーという存在について
この映画の核心は、異星人ロッキーとの出会いにある。
音波でコミュニケーションを取る蜘蛛状の生命体との接触を、この映画は驚くほど丁寧に描く。数字から始まり、単語を積み上げ、互いの「怖いもの」を発見することで感情を共有する——そのプロセスの段階的な描写は、「理解する」という行為がいかに奇跡的な出来事であるかを実感させる。
このサブジャンルで定番のキャラ設定や物語要素を少しずつ外しているのも巧い。高度な文明を持つ異星人は外見も洗練されているといったステレオタイプを外し、ロッキーはグレースと対等な「同じ問題を抱えた者」として登場する。敵対でも圧倒的な技術差でもなく、同僚として出会うこの設定が、接触の物語に新しい質感を与えている。
「2001年宇宙の旅」「未知との遭遇」「E.T.」「コンタクト」「メッセージ」——異星人との遭遇を扱うSFの系譜に新たな傑作が加わったと言っても過言ではない。
しかし、一つだけ問いたい
ロッキーは、完璧すぎる他者だ。
彼は嘘をつかない。裏切らない。コミュニケーションは難しいが、それは「解読できる謎」であって「修復できない傷」ではない。二者の間には歴史がなく、過去のすれ違いも積み重なった誤解もない。
現実の人間関係が難しい理由の大半は、ここに由来する。ロッキーはその困難をすべて除去した上で存在している。つまりグレースがロッキーと築いた関係は、人間関係から最も厄介な属性を取り除いた条件下でのみ成立するものだ。
これを欠陥とは言わない。フィクションの特権として、理想的な条件を設定することは正当だ。ただ、この映画が「孤独と接続の物語」として語られるとき、その「接続」がいかに特殊な条件の上に立っているかは意識されてよい。
そして結末について。グレースは地球へ帰らず、ロッキーの星へ向かうことを選ぶ。感動的な場面として機能しているし、実際に感動する。だが同時に、グレースが記憶を取り戻す過程で抱えることになった「現実の重さ」——地球に残したもの、引き受けるべき時間——と向き合う必要から、その選択は彼を解放する。宇宙という舞台の崇高さが、帰還の重さを免除している。
映画はその選択を批判しない。むしろ祝福する。この祝福に、わずかな引っかかりを感じるとしたら、それはこの映画が「現実の孤独」ではなく「宇宙の孤独」を描いたことへの、静かな異議申し立てかもしれない。
それでも、なぜ観るべきか
ゴズリングは刊行前の原稿を読んですぐに夢中になり、「この物語を映画にするには彼らしかいない」とフィル・ロード&クリストファー・ミラーの起用をスタジオに働きかけたという逸話が示すとおり、この映画はひとりの俳優の確信から始まっている。その確信は正しかった。
世界が解決不可能な問題で満ちているとき、「知性と誠実さで問題は解けるかもしれない」という物語は、単純な逃避ではなく倫理的な立場の表明でもある。ロード&ミラーというコンビは『スパイダーバース』で証明したように、娯楽の形式の中に本物の感情を宿らせることができる監督だ。この映画もその例外ではない。
引っかかりを持ちながら感動する——それが正直なところだ。そしてその引っかかりを持ったまま映画館を出るとき、宇宙の話はいつも地上の話でもあることに気づく。