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漫画を現実化するとは、内側の現実を外に持ち出すことだ Netflix実写版『ONE PIECE』シーズン1〜2から考える

見ているだけで、泣けてくる。

Netflix実写版『ONE PIECE』シーズン2を観ながら、ぼくはそのことにまず驚いた。感動したから泣いているのではない。ある種の「驚愕」に近い感覚として、涙が出てくる。なぜこんなことが起きるのか。それを考えることが、この文章の出発点だ。

「ナミの涙」が画面に現れた日

シーズン1の終盤、ナミがルフィに「助けてください」と頭を下げるシーンがある。原作で読んだとき、あるいはアニメで見たとき、あの場面は「自分の中」にしかなかった。ナミの涙は、自分の記憶の中の涙だった。完全に個人的な現実として、胸の奥の一番やわらかいところに刻まれていた。

実写版でエミリー・ラッドがあの顔をしたとき、ぼくが感じたのは感動ではなかった。「これは私の中にあったものだ」という認識が、身体的な衝撃として来た。ずっと内側にしか存在しなかったものが、突然「外側」に現れた。そのことへの驚愕が、涙として溢れた。

つまり実写化が行うのは「虚構を現実にすること」ではない。「内側にしかなかった現実」を「外側に持ち出すこと」だ。

漫画の線は「抽象」ではない

実写化を語るとき、よく「抽象(線)から具体(肉体)への変換」という言い方がされる。でもこれは根本的に間違っている。

漫画の線は抽象ではない。ONE PIECEを何年も読んできた人間にとって、ルフィの笑顔は既に完全に「現実」として記憶され、身体化されている。問題は、その現実が「内側に閉じていた」ということだ。

スコット・マクラウドは名著『Understanding Comics』の中で「コマとコマの間の溝が読者の想像力を完成させる」と論じた。漫画は完成を読者に委ねる芸術だという卓見だが、実写化を論じるには、もう一歩踏み込む必要がある。

漫画が読者に委ねるのは「想像力による補完」だけではない。「感情の所有」だ。何千万人がONE PIECEを読んでいても、「自分のルフィ」は各自の内部にある。それは完全に個人的な現実だ。実写化はその「個人的な現実」を「共有可能な現実」に変換しようとする試みなのだ。だから多くの実写化は失敗する。「私のルフィ」ではないものが画面に映るから。

「現実化」とは解釈の決定であり、一種の暴力でもある

しかし同時に、これは暴力でもある。

漫画のルフィは無限に解釈可能だった。読者それぞれの「ルフィ」が同時に並存できた。実写化の瞬間、その可能性は一つの身体に収束する。イニャキ・ゴドイという俳優がルフィになることで、「ルフィとはこういう人間だ」という決定が下される。

これを「豊かさの貧困化」と批判することもできる。でも逆説的に、だからこそ感動が生まれるとも言える。可能性が一つの肉体に「賭けられる」その緊張と責任が、泣けてくる体験の底にある。

ゾロとミホークの決闘後、新田真剣佑が演じるゾロが「何も……なかった」と呟く。原作でも指折りの名場面だ。あの台詞が肉体を持った瞬間、ぼくは「賭けが成立した」と感じた。可能性が一つの身体に降りてきた、その降臨を目撃した感覚だ。ゾロはずっと自分の頭の中に住んでいた。その彼が、今、目の前にいる。

ONE PIECEが実写化で最も困難な理由、そして最も成功する理由

ONE PIECEは実写化において最も困難な作品の一つのはずだった。ゴム人間、悪魔の実、海賊王——これらは「現実にあり得ないもの」として設計されている。ドラゴンボールやNARUTOが実写化で繰り返し失敗してきた軌跡を思えば、不安は当然だった。

シーズン2ではその難度が更に跳ね上がる。ローグタウンでルフィはロジャーが処刑された台の上に立ち、笑う。笑いながら、何かを引き受ける。この「笑い」を肉体で表現できるか——ゴムよりも、処刑台の上の「笑い」の方が、よっぽど実写化が難しいものだった。

そしてドラム島編のヒルルクの死。「人はいつ死ぬと思う? 忘れられた時だ」。この言葉が人間の口から発せられ、涙を堪えながら聞くチョッパーがいる。CGで作られたチョッパーが、画面の中で確かに「そこにいる」。

Netflix版が機能している理由は一つだと思う。制作陣が「嘘をリアルに見せること」ではなく、「感情の真実を守ること」に賭けたからだ。チョッパーの身体がどれだけリアルに見えるかは問題ではない。ヒルルクが笑いながら爆発するとき、そこにある感情の構造が原作と同じ重力を持っているかどうかが全てだ。

漫画を現実化するとは、絵柄を再現することではなく、感情の物理法則を移植することだ。

ドラム島を去るとき、冬の雪が桜色に染まる。あの色をぼくは知っている。漫画のモノクロページの中に、確かにあの色はあった。それが画面に溢れた瞬間、それは「再現」ではなかった。「あなたが感じていたものはこれでしょう」という問いかけに対して、「そうだ」と身体が答えた瞬間だった。

「記憶が肉体を持つ」という体験

もう一つ、泣けてくる体験に含まれている層がある。

ONE PIECEを読んできた時間は、そのまま自分が生きてきた時間でもある。シャンクスに憧れたルフィを初めて読んだあの日、ナミの涙に胸が痛んだあの夜、ヒルルクの死に声を上げたあの朝——それらは全て自分の歴史だ。実写化を見る瞬間、その全ての時間が画面に結晶化する。これは単なるノスタルジーではない。

自分が生きてきた時間が「現実の映像」として目の前に現れる——これは一種の「自己の外在化」だ。自分の内側にあったものが、外側の世界に「となり」として現れる瞬間。笑われるかもしれないが、これは愛と同じ構造をしていると思う。愛するとは、自分の内側にある「その人」が外側の世界に現れたと気づくことだから。

だからぼくたちは泣く。懐かしいからではなく、驚いているのだ。自分の中にあったものが、確かにここにある、と。

 

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