UZ -browse the shift-

カルチャー横断ブログメディア「UZ」

超常現象は、いつか論理になる——村上春樹の文章を味わう3『ねじまき鳥クロニクル』

眉唾だと思っていた

正直に書く。『ねじまき鳥クロニクル』で岡田トオルが赤坂ナツメグと出会う場面を、僕は長いあいだ眉唾だと思っていた。

筋だけ取り出してみるといい。仕事を辞めた男が、新宿駅西口の広場のベンチに毎日座って、行き交う人々の顔をただ眺めている。そこへ身なりのいい年配の女が現れ、彼の頬のあざに目を留め、声をかけ、やがて法外な報酬の仕事へと彼を引き込んでいく。ご都合主義と言えばご都合主義、超常現象と言えば超常現象だ。十代で初めて読んだとき、僕はこの場面を「運命」の側の出来事として処理した。頬のあざという徴、選ばれる男、導く女。物語がそう要請しているのだから、そういうものとして飲み込む。そして飲み込んだまま、小さな骨のように喉に引っかかり続けた。

あれから二十五年が経って、この場面がまったく違って見えている。超常現象にしか見えなかったものが、今では論理的に説明できてしまうのだ。今回はその話を書きたい。

新宿西口で、顔を見る

まず場面そのものを味わい直す。トオルが新宿でやっていることは、暇つぶしではない。彼は毎日、決まった時間に、決まったベンチに座り、通り過ぎる無数の顔をひたすら見続ける。それは反復される規律であり、ほとんど修行に近い何かとして書かれている。

 

読み返して驚くのは、この描写の具体性だ。群衆は「群衆」という塊では書かれていない。一人ひとりの顔があり、服装があり、歩き方があり、その向こうに生活が想像されている。道を眺めて、そこを通る人がどう生きているのかを想像する。この視線の解像度は、いったいどこから来ているのか。

ジャズ喫茶のカウンターから

答えは作家の伝記の側にある。村上春樹は小説家になる前、国分寺で、のちに千駄ヶ谷で、ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していた。約七年間、彼は店主だった。

店主とはどういう人間か。扉が開くたびに入ってくる見知らぬ顔を読み、一見か常連かを判断し、常連の顔色の変化を読み、注文の前に機嫌を推し量る。それを毎日、何年も続ける人間だ。カウンターの内側というのは、世界でいちばん人間観察に適した場所のひとつである。しかも観察は趣味ではなく、経営に直結した職能だ。読み間違えれば店が傾く。

つまり、道を眺めて人の生活を想像するという行為は、村上春樹にとって空想ではなかった。体に染み込んだ仕事の技術だった。トオルの視線の解像度は、作者がカウンターの内側で七年かけて磨いた解像度そのものだ。ああいうシーンは、現実の体験なしには書けない。そういうのが小説なのだと、僕は思う。

観察する者は、観察されている

だが、この場面が論理的である本当の理由は、もう一段深いところにある。

ナツメグがトオルを見つけたのは偶然ではない。毎日同じ場所に座って人の顔を見続ける男は、街の中で必ず目立つ。ただし、誰の目にでも留まるわけではない。同じように人を見る訓練を積んだ人間の目にだけ、留まる。

そしてナツメグこそ、その訓練を積んだ人間だ。彼女はファッションの世界で生き、その後は裕福な女たちの身体に触れ、内側の不調を「読む」仕事をしている。人間をひと目で査定する視線を、職業として持っている女なのだ。

 

つまりあの出会いは、選ばれた男と謎の女の神秘的な邂逅ではない。二人の観察者が、観察によって互いを検出した場面だ。観察する者は、観察する者にだけ発見される。超常の意匠の下で動いているのは、完全に世俗的な、街のメカニズムである。二十代の僕にこれが見えなかったのは、単純な話で、街で働いたことがなかったからだ。

二十五年かけて、論理が届いた

前回、『夏帆』の初読について書いたとき、僕は「自分はもう村上春樹の有益な読者ではなくなったのかもしれない」と書いた。魔法が解けた、と。

だが、逆のことも同時に起きていたのだと、今回気づいた。僕は雑誌編集者として無数の人に会い、コールセンターでは声だけから相手の状態を読み、十を超える職場で、そのたびに見知らぬ人間たちを観察しながら生きてきた。人を見るという技術を、意図せず二十五年かけて積み上げてきた。その結果、かつて超常現象に見えた場面が、精密な技術描写として読めるようになった。

魔法が解けることと、論理が届くこと。このふたつは、たぶん同じ加齢の裏表だ。読者は作品から遠ざかりながら、同時に作品の別の層へ近づいている。どちらか一方だけが起きるのではない。

そういうのが小説

だとすれば、こう言えるのではないか。小説の中の「超常」の何割かは、作者がすでに体験し、読者がまだ体験していない現実にすぎない、と。

書かれた時点で、それは作者にとって論理だった。読者にとってだけ魔法だった。そして読者が生きて、働いて、人を見て、二十五年後にページを開き直したとき、魔法は音もなく論理に変わっている。作品は一行も変わっていないのに。

現実の体験なしには書けないシーンがあるように、現実の体験なしには読めない読みがある。だったら、まだ超常現象にしか見えない場面が残っている小説は、僕がまだ体験していない現実の在り処を教えてくれているのかもしれない。それが何なのかは、たぶんあと二十五年すればわかる。