
映画『ウィキッド ふたりの魔女』(2024年)と『ウィキッド 永遠の約束』(2025年)は、ブロードウェイで20年以上愛され続けてきたミュージカルの映画化作品だ。原作は『オズの魔法使い』——あの、カンザスの少女ドロシーが竜巻に飛ばされてオズの国へたどり着く物語。誰もが知っているこの古典に、ウィキッドは一つの問いを投げかける。「西の悪い魔女」は、本当に悪かったのか?
ふたりの魔女
パート1『ふたりの魔女』は、のちに「悪い魔女」と呼ばれることになるエルファバと、「善い魔女」となるグリンダの出会いから始まる。
エルファバは生まれつき緑色の肌を持ち、その外見のせいで家族にも疎まれて育った。一方グリンダは美しく、野心的で、誰からも愛される人気者だ。ふたりはオズの国にあるシズ大学で偶然ルームメイトになる。正反対の性格、正反対の境遇。当然ながら最初は激しく衝突するが、やがて互いの本質を認め合い、深い友情で結ばれていく。
転機は、エルファバがオズの魔法使いに謁見するときに訪れる。エルファバは強力な魔法の才能を持っており、オズの魔法使いはその力を利用しようとする。しかしエルファバは、オズの国で起きている不正——言葉を話す動物たちが権利を奪われ、迫害されている現実——に気づいてしまう。そしてその迫害を主導しているのが、ほかならぬオズの魔法使い自身だと知る。
エルファバは選択を迫られる。権力に従って安全な立場を得るか、自分の信じる正しさを貫いて社会から追放されるか。彼女は後者を選ぶ。箒にまたがり空高く飛翔するクライマックスは、「悪の誕生」ではなく「善の選択による追放」の瞬間だ。名曲「Defying Gravity(自由を求めて)」が響くこの場面は、パート1の中で最も力強い瞬間であり、映画全体の核でもある。
永遠の約束
パート2『永遠の約束』は、その後の物語だ。「西の悪い魔女」として悪名を着せられたエルファバは、言葉を奪われた動物たちの自由のために孤独な戦いを続けている。一方グリンダは「善い魔女」として民衆の希望の象徴となるが、その心にはエルファバとの決別が深い影を落としている。
パート2のトーンは前作とは明らかに異なる。大学時代のきらめきは消え、物語は対立、孤立、プロパガンダの恐怖、権力による真実の歪曲といった重苦しいテーマへと沈んでいく。オズの魔法使いは「共通の敵」を作り出すことで大衆を団結させ、自らの支配を維持する。エルファバこそがその「敵」として利用される。
やがて「カンザスから来た少女」——ドロシーが現れ、物語は『オズの魔法使い』の裏側として収束していく。観客が知っている結末、すなわち「悪い魔女が水で溶かされる」場面の真相が明かされる。そしてこの物語はハッピーエンドを迎える。エルファバは死んでいなかった。悪い魔女は最初から存在しなかった。あったのは、権力が作り上げた虚構の「悪」だけだった。
ふたりの魔女が最後に交わす歌「For Good(あなたを忘れない)」は、友情の讃歌であると同時に、この物語全体のテーゼを凝縮している。出会いによって人は変わる。たとえ世界がふたりを引き裂いても、互いに与えた影響は永遠に消えない。
悪は存在しない、という物語
ウィキッドが語っているのは、煎じ詰めれば「悪は存在しない」ということだ。エルファバは悪くなかった。彼女を「悪」と名指したのは権力の構造であり、プロパガンダであり、大衆の無知だった。真実が明かされれば悪は消える。誤解が解ければ和解が訪れる。
この物語の原型には明確な時代背景がある。ミュージカル版ウィキッドがブロードウェイで初演されたのは2003年10月。イラク戦争が始まった年だ。「大量破壊兵器がある」という虚偽の情報によってイラクが「悪」と名指しされ、戦争が正当化された時代。制作者たちは湾岸戦争の影響を公然と認めており、「アメリカにはアメリカの正義があり、イラクにはイラクの正義がある」という視点を作品に込めたとされている。
2003年のウィキッドは、その時代に対して鋭い批評性を持っていた。「悪と呼ばれているものを本当に見たのか」という問いは、ブッシュ政権下のアメリカに向けられた静かな異議申し立てだった。
なぜ今なのか
では、2024年から2025年にかけて映画化されたウィキッドはどうか。
映画化の企画自体は2012年に始まっている。パンデミックやハリウッドのストライキを経て、撮影が完了したのは2024年。パート1は同年11月にアメリカで公開され、全世界興行収入はブロードウェイミュージカル映画化作品として歴代1位を記録した。アカデミー賞では10部門にノミネートされ、2部門で受賞。文句なしの大成功だ。
しかし問いたいのは興行成績のことではない。この映画が、今の世界に対して何を言ったのか、ということだ。
2003年と2025年では、世界がまるで違う。
エプスタイン文書が暴いたのは、「善の仮面をかぶった悪」の実在だった。慈善家として、社交界の名士として、表の世界で善人の顔をしていた権力者たちが、裏では想像を絶する加害を行っていた。これはウィキッドの構造と奇妙に重なる。ウィキッドもまた「善い魔女」と「悪い魔女」のレッテルの欺瞞を描く物語だからだ。しかし決定的に違うのは、ウィキッドでは「悪は存在しなかった」が結論になるのに対し、エプスタイン文書は「悪は確かに存在し、しかもそれは善の仮面をかぶっていた」という事実を突きつけたことだ。
現在進行中の戦争もそうだ。ガザで起きていること、ウクライナで起きていることは、「誤解が解ければ和解できる」という次元にない。実際の暴力があり、実際の死がある。対話と相互理解では解消できない種類の悪が、世界にはある。
2003年には「悪と呼ばれているものは本当に悪なのか?」という問いが有効だった。2025年には、その問いの前提そのものが揺らいでいる。悪は名指しの問題ではなく、実在する。
撃ち切れなかった弾丸
だからこそ、この時代に映画としてウィキッドを公開することには、巨大な意味がありえた。
数千万人の観客に向けて、「あなたが悪と呼んでいるものを本当に見たのか」と問いかけ、悪の実在を確信している世界にあえて「それでも悪は存在しない」と言い切ること。それはナイーブな楽観ではなく、戦闘的な希望になりえた。エプスタイン文書の後だからこそ、「善の仮面」の構造を暴く物語には新たな意味が生まれたはずだし、戦争の最中だからこそ、「敵を作り出す権力」への批判はより切実な射程を持てたはずだ。
ウィキッドは世界に希望をふりまくことができた。
しかし映画はそこまで踏み込まなかった。美しく、完成度は高く、シンシア・エリヴォとアリアナ・グランデの演技と歌唱は圧倒的で、エンターテインメントとして申し分ない。だが、時代と格闘した痕跡がない。2003年の物語を2024年に忠実に再現することと、2024年の世界に向けて2003年の物語を再び撃つことは、まったく別のことだ。映画版ウィキッドは前者をやった。後者はやらなかった。
弾丸は込められていた。銃口は世界に向いていた。しかし引き金は引かれなかった。