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「私たちはすでに『なめらかな世界』の住人である——伴名練が文学にしたインターネットの万能感」

 

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万能感を「体感」させた作家

伴名練「なめらかな世界と、その敵」について書く。

この短編の舞台は、人間が複数の並行世界を自在に行き来できる世界だ。主人公たちは、いくつもの可能性の分岐先を同時に生きている。ある世界で教室にいながら、別の世界では屋上にいる。ある世界で友人と話しながら、別の世界では一人でいる。その切り替えに意識的な努力はいらない。世界は「なめらか」に繋がっていて、どの可能性にもシームレスにアクセスできる。

この設定だけ聞けば、SFとしては珍しくない。並行世界ものは山ほどある。だが伴名練がやったことは、並行世界を「設定」として説明することではなかった。冒頭の数ページで、読者はこの世界の住人の知覚をそのまま受け取る。複数の現実が重なり合い、ゆらぎ、切り替わっていく感覚が、文体そのものによって再現される。説明ではなく、体感として届く。読み始めてすぐに、我々はこの世界の万能感を身体的に理解してしまう。

万能感。あらゆる場所に同時にいられる。あらゆる可能性を試すことができる。どこにでも行ける。

ここで一つ、問いを立てたい。なぜ我々は、この途方もない感覚を「読み始めてすぐに」理解できるのか。並行世界の同時知覚など、人間の日常経験にはないはずだ。にもかかわらず、伴名練の文章はほとんど説明なしにその感覚を読者に手渡す。まるで、我々がすでにそれを知っているかのように。

なぜ我々はこの感覚を「知っている」のか

知っているのだ。

我々はすでに、万能感を生きている。検索窓に言葉を打ち込めば、世界中のどこにでもアクセスできる。あらゆる情報、あらゆる場所、あらゆる人間の記録に、瞬時に手が届く。境界がない。距離がない。2000年代初頭にGoogleが世界を検索可能にしたとき、人類が手に入れたのはまさにこの感覚だった。すべてが「なめらか」に繋がっている世界。どこにでも行けるという実感。もちろんそれは錯覚だ。だが錯覚であることを知りながらも、我々は日々それを感覚として生きている。タブを開き、リンクを踏み、別の世界へ移動する。戻るボタンで元の世界に帰る。その動作に、もはや意識的な努力はいらない。

伴名練の「なめらかな世界」が読者に即座に了解可能なのは、この作品がインターネット以降の人間の感覚の上に正確に乗っているからだ。並行世界を行き来するという設定は、我々がすでに検索とブラウジングによって体得している「あらゆるところにアクセスできる」という万能感の、SF的な身体化である。だからこの小説は、SFの設定を理解するために頭を使う必要がない。知っている感覚が、小説の文体を通じて増幅され、より鮮烈に返ってくる。

これが、この作品の快楽の正体だ。

才能はどこにあるか

ここで重要なのは、伴名練の才能が「アイデア」にあるのではなく「文体」にあるということだ。インターネット的万能感をSFに変換するというアイデア自体は、言語化してしまえば誰でも思いつける。だが、それを小説の文章として成立させること——複数の現実が重なる感覚を、読者が自分の身体で感じるレベルまで書ききること——これは技術であり、才能であり、ほとんど誰にもできないことだ。

SFにおいて概念が概念のまま提示されるのではなく、読者の身体感覚として着床する。それが起きている冒頭の数ページこそが、この短編の核心であり、伴名練という作家の才能の証明だ。

物語の中盤で、主人公はこの能力を失う。並行世界を行き来できなくなり、ひとつの世界にしか存在できなくなる。ここから物語は喪失と帰還の構造を取る。万能であったものが普通になり、孤独になり、それでも世界と向き合い直す。正直に言えば、この展開に驚きはない。青春小説としての完成度は高いが、万能感を描いた前半ほどの圧倒的な力はここにはない。能力を失った人間が世界と和解する物語は、SFでなくても書ける。

才能があるのは、万能感の側だ。あの冒頭、世界がなめらかに繋がっている感覚を、文章だけで読者の身体に直接届けた技術。それは現代に生きる人間がすでに持っている感覚を正確に捕まえ、SFの形式を借りて文学の強度にまで高めるセンスの力だ。

我々はすでに「なめらかな世界」にいる

そしてこの「万能感の文学化」という達成は、逆説的に、我々自身の日常を照らし返す。

我々はすでにインターネットによって「なめらかな世界」の住人になっている。あらゆる可能性にアクセスでき、あらゆる場所に手が届く。だがその感覚があまりに日常化しているために、我々はそれを感覚として自覚していない。水の中の魚が水を知らないように、万能感の中にいる人間は万能感を感じない。伴名練がやったのは、その自覚されていない感覚を小説という形式で取り出し、「あなたはすでにこれを知っている」と突きつけることだ。

優れたSFとは、未来を予測することではない。現在をSF的な距離から照射し、我々がすでに生きている世界の異様さを見せることだ。「なめらかな世界と、その敵」は、インターネット以降の人間の万能感という、あまりに当たり前になった異様さを、短編小説の密度で結晶化させた作品だ。それだけのことだが、それだけのことができる作家は、ほとんどいない。