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『薬屋のひとりごと』が映す、知と権力のジェンダー構造

『薬屋のひとりごと』が映す、知と権力のジェンダー構造

知性が武器となる場所

日向夏による小説『薬屋のひとりごと』は、中華風の架空帝国を舞台に、薬師見習いの少女・猫猫が後宮で巻き起こる謎を解いていく物語である。一見すると、美しい宮廷を背景にしたミステリーエンターテインメントに思えるこの作品は、しかし読み進めるほどに、きわめて精緻なジェンダー権力論を内包していることに気づかされる。それは説教臭い社会批評などではなく、猫猫という一人の少女の生き様を通じて、知と権力をめぐる構造そのものを可視化してみせる試みなのだ。

物語の舞台となる後宮は、皇帝の妃たちが暮らす女性だけの閉鎖空間である。ここは男性権力の象徴でありながら、同時に女性たちが独自の秩序を形成する場でもある。猫猫はこの空間に、花街の薬師の娘という出自を持ちながら下女として入り込む。彼女が持ち込むのは薬学という「科学知」であり、それは後宮という伝統と迷信に支配された世界において、異質な光を放つ。

戦略的に愚鈍を演じる知性

猫猫というキャラクターの最大の特徴は、その徹底した実利主義と、知性の戦略的な隠蔽にある。彼女は類まれな薬学知識を持ちながら、それを誇示することなく、むしろ目立たぬよう振る舞う。これは単なる謙遜ではない。女性が知性を持つことが必ずしも歓迎されない社会において、知を持つ者が生き延びるための戦術なのである。

従来の物語における「賢い女性キャラクター」は、しばしばその知性によって男性社会に認められ、称賛されることで物語的報酬を得てきた。しかし猫猫は違う。彼女は自らの知を、必要な時にのみ、必要な分だけ開示する。それは承認欲求からではなく、目の前の問題を解決するため、あるいは自分や他者の命を守るためという、極めて実践的な理由によってである。この姿勢は、知性が女性にとって常に両刃の剣であることを体現している。知を見せすぎれば疎まれ、見せなければ無能と見なされる。猫猫はこの綱渡りを、驚くべき冷静さで遂行する。

後宮という権力の実験場

後宮という舞台設定自体が、きわめて批評的な意味を持つ。表面的には男性権力の頂点である皇帝に奉仕する空間でありながら、日常的には男性の不在する女性だけの社会である。ここでは妃たちが独自のヒエラルキーを形成し、侍女たちはその下で複雑な力学を生きる。つまり後宮は、男性権力の影響下にありながら、その直接的支配からは一定の距離を置いた、ある種の「半自律的な女性社会」なのである。

この空間において、猫猫の薬学知識は異様な力を発揮する。なぜなら後宮では、出産、毒殺、病気といった身体的な危機が日常的に存在し、それらは直接的に権力の消長と結びついているからだ。皇子を産むことができるか、健康を保てるか、毒を見抜けるか。これらはすべて医学的・薬学的知識と関わる問題であり、猫猫はその知識によって、本来ならば下女という最下層にいるはずの彼女が、権力構造の核心に触れることを可能にする。

壬氏という鏡像

猫猫の対照として配置されるのが、宦官の壬氏である。絶世の美貌を持ちながら去勢された(とされる)存在である壬氏は、男性性を剥奪されることで後宮という女性空間に入ることを許された人物だ。彼もまた、ジェンダー秩序の境界線上に立つ存在である。

興味深いのは、猫猫と壬氏の関係性が、従来の「賢い女性と理解ある男性」という図式を踏襲しながらも、それを巧妙に転倒させている点だ。壬氏は猫猫の知性を高く評価し、彼女を重用する。しかしそれは単純な「認めてあげる」という上から目線の関係ではない。壬氏自身も後宮という権力空間において、複雑な政治的立場に置かれており、猫猫の知性を必要としている。つまりここには相互依存的な関係性がある。猫猫は壬氏の権力を利用して自らの知を実践し、壬氏は猫猫の知性を利用して後宮の問題を解決する。

さらに重要なのは、猫猫が壬氏の美貌にまったく関心を示さないという設定である。これは単なるギャグ要素ではなく、猫猫が外見という記号的価値に惑わされず、実質的な利害関係のみで人間を評価する人物であることを示している。彼女にとって壬氏は「美しい男性」ではなく「交渉可能な権力者」なのだ。この姿勢は、女性キャラクターが恋愛を通じてのみ物語的に成長するという図式への明確な拒絶である。

知の正統性をめぐる闘争

猫猫の薬学知識は、後宮において常に「正統性」をめぐる闘争に巻き込まれる。彼女の知は実証的であり、観察と実験に基づいている。一方で後宮には、伝統的な医学、迷信、陰陽思想といった既存の知の体系が存在する。猫猫はこれらを真っ向から否定するのではなく、使えるものは利用し、危険なものは巧妙に回避する。

ここに見られるのは、マイノリティが支配的な知の体系と対峙する際の、現実的な戦略である。猫猫は「科学的に正しい」ことを声高に主張して既存の権威に挑戦するのではなく、結果を出すことによって自らの知の有効性を証明する。これは正面突破ではなく、浸透戦略とでも呼ぶべきものだ。彼女は既存の権力構造を転覆しようとするのではなく、その隙間を縫って、自らの知を実践可能な領域を確保していく。

この姿勢は、しばしばフェミニズム批評において問題視される「従順な女性像」とは本質的に異なる。猫猫は確かに表面的には権力に従順だが、それは戦術的な従順さである。彼女は自らの知を守り、実践し、結果として他者の命を救うために、表面的な従順さという仮面を被る。これは抵抗の一形態であり、しかも極めて有効な抵抗なのだ。

身体性という戦場

『薬屋のひとりごと』において特筆すべきは、女性の身体性が物語の中心的なテーマとして扱われている点である。妊娠、出産、月経、毒物による身体への影響、性的搾取。これらは後宮という空間において、常に権力と結びついた問題として現れる。

猫猫はこれらの問題に対して、感傷的になることなく、しかし冷酷になることもなく、薬師としての専門的視点から向き合う。彼女にとって女性の身体は、神秘化されるべき対象でも、恥じるべき対象でもなく、理解し、管理し、守るべき対象である。この姿勢は、女性の身体が常に他者(男性、社会、伝統)の管理下に置かれてきた歴史に対する、静かな反論となっている。

猫猫自身が花街出身であり、性産業の現実を幼い頃から目にしてきたという設定も重要だ。彼女は性を忌避するのでも、ロマンティサイズするのでもなく、それを現実の経済的・社会的関係として理解している。この現実主義は、女性キャラクターが純潔か堕落かという二項対立に押し込められがちなフィクションの文脈において、第三の道を示している。

猫猫が切り開く地平

『薬屋のひとりごと』が優れているのは、これらすべての社会批評的要素が、説教臭さを伴わず、エンターテインメントとして成立している点である。読者は猫猫の推理を楽しみ、壬氏との掛け合いに笑い、後宮の陰謀にハラハラする。そしてその過程で、知と権力とジェンダーをめぐる複雑な構造に、自然と触れることになる。

猫猫というキャラクターは、女性が知性を持つことの困難さと可能性を同時に体現している。彼女は社会の制約の中で生き延びるために戦略的に振る舞いながら、決して自らの知性を手放さない。彼女は承認を求めず、しかし必要とあらば自らの価値を証明する。彼女は恋愛に興味を示さず、しかし人間関係を巧みに利用する。彼女は権力に従順なふりをしながら、実は誰よりも自由である。

この物語が提示するのは、理想化された「強い女性像」でも、犠牲者としての「弱い女性像」でもない。それは制約の中で知恵を駆使して生き抜く、したたかで現実的な女性の姿である。そしてその姿は、フィクションの枠を超えて、現実を生きる私たちに対しても、何かを語りかけているように思えるのだ。

『薬屋のひとりごと』は、後宮という華やかな舞台装置の奥に、知と権力とジェンダーをめぐる深い洞察を忍ばせた作品である。猫猫という一人の少女の物語を通じて、この作品は私たちに問いかける。知性とは何のためにあるのか。権力とどう向き合うべきか。そして、自分であり続けるとはどういうことか。その答えは、猫猫のように、一つ一つの選択の中にしか見出せないのかもしれない。

 

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