
野崎まど、あるいは「天才を書く」という執着
野崎まどという作家を語る時、「天才」というワードを避けて通ることはできない。『[映]アムリタ』の最原最早、『パーフェクトフレンド』の理桜、そして『know』の道終・常イチと知ル。彼の作品には、人間の認知の枠組みを軽々と超えていく存在が繰り返し登場する。
ただし、野崎まどの描く天才は、単なる「頭がいい人」ではない。彼らは常に、何かを「突き抜けて」しまった存在として描かれる。IQが高いとか、計算が速いとか、そういう量的な優位性ではなく、認識の構造そのものが異なる存在。見ている世界が違う、というよりも、世界の見え方の次元が違う。
『know』は、その野崎まど的「天才観」の到達点と言っていいだろう。なぜなら本作が扱うのは「知る」という行為の究極形態だからだ。知識の量ではない。認識の質でもない。「すべてを知る」とはどういうことか。全知とは何か。その問いに正面から挑んだ作品である。
2081年、〈電子葉〉が義務化された京都で
物語の舞台は2081年の京都。人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化され、人類は直接情報をダウンロードできるようになっている。知識はもはや努力して獲得するものではなく、インストールするものになった。世界を覆う情報インフラとしての「情報材」「情報素子」、そしてそれを受け取る脳内デバイスとしての〈電子葉〉。このテクノロジーの二重構造が、『know』の世界を支えている。
しかし、すべての人間が同じ情報にアクセスできるわけではない。クラス0から6までの「情報階級」が存在し、クラスによってアクセス可能な情報の範囲が決まっている。最下層のクラス0から、クラス6は内閣総理大臣と各省大臣に付与される特権階級。情報が階級を規定する社会。
この設定が秀逸なのは、「知」というものの本質を逆照射している点だ。すべての情報にアクセスできることは、すべてを「知っている」ことと同義なのか? データの総体は知恵となりうるのか? 野崎まどは、その問いを物語の構造そのものに埋め込んでいる。
主人公の御野・連レルは、情報庁で働く官僚だ。ある日、情報素子のコードの中に、14年前に失踪した恩師・道終・常イチの暗号を発見する。常イチは「知ること」の本質を追求し続けた研究者であり、連レルにとっては人生を変えた存在だ。師の足跡を追う弟子。その構図自体が、知の継承という主題を体現している。
天才と天才が出会うとき──クラス9という衝撃
『know』の最大の魅力は、天才同士の「呼応」にある。
道終・常イチは、世界の仕組みを理解しようとした天才だ。彼は問いを立てる。「知る」とは何か。情報を得ることか。理解することか。予測することか。彼の思索は、やがてある一点に収束していく。すべてを知ることは可能か? そして、すべてを知った時、何が起こるのか?
その問いへの「回答」として物語に登場するのが、彼の娘・道終・知ルだ。
ここで野崎まどは、制度そのものを破壊してくる。クラス0から6までしか存在しないはずの情報階級。その体系の「外側」に、知ルは位置している。彼女が持つのは〈量子葉〉──量子コンピュータを基盤とした電子葉であり、その情報処理能力は「クラス9」に相当する。存在しないはずの階級。制度が想定していなかった規格外。
普通、フィクションにおける「全知」は神の属性だ。人間に全知を付与することは、物語を破綻させるリスクを伴う。すべてを知っているなら、謎も葛藤も存在しない。ドラマが成立しない。
しかし野崎まどは、その困難を逆手に取る。知ルは確かに「全知」へ手を伸ばせる存在として物語に配置されている。しかし「知っている」ことと「理解している」こと、「知っている」ことと「経験している」ことは異なる。彼女はすべての情報を処理できる能力を持ちながら、同時に何かを「知らない」。その逆説が、物語の核心となる。
連レルと知ルが出会う瞬間、天才と天才が呼応する。常イチの弟子である連レルは、師の知を継承した存在だ。そして知ルは、常イチの「問い」に対する「答え」として存在している。彼らの対話は、単なる会話ではない。「知ること」をめぐる思想が、二つの人格を通じて交錯する。
そう、これは問答なのだ。ソクラテスとプラトン、あるいは禅における師弟の対話。知の伝達は、情報のコピーではなく、対話を通じた相互変容によってのみ成立する。野崎まどは、その古典的なテーゼをSF的設定の中で再演している。
「あらかじめ、すべて決まっている」という戦慄
知ルという存在が突きつけるのは、決定論の問題だ。
クラス9の情報処理能力。それは、世界の状態をほぼ完全に把握し、そこから未来を高精度で予測できることを意味する。少なくとも連レルの視界では、知ルの振る舞いはラプラスの悪魔を思わせる。明日何が起こるか、一年後何が起こるか。物理法則と初期条件がわかれば、宇宙の未来は原理的に計算可能である──その悪魔の似姿を、彼女は体現しているように見える。
彼女と対峙した者にとって、時間は異なる様相を帯び始める。すでに起こったことと、これから起こることの区別が曖昧になる。すべては「決まっている」かのように感じられる。未来は確定している。自由意志は幻想である。
この認識は、常人の精神を破壊するだろう。何をしても結果は変わらない。選択に意味がない。人生はあらかじめ書かれた脚本を読み上げているだけ。
しかし知ルは壊れていない。なぜか。
そこに野崎まどの洞察がある。「すべてが決まっている」ことと、「すべてを受け入れている」ことは違う。決定論は世界の構造についての記述であって、その世界を生きることの意味を否定しない。知ルは「すべてを知りうる」がゆえに、すべてを肯定しているように見える。
これは仏教的な悟りに近い。あるいは永劫回帰を肯定するニーチェ的な姿勢。世界がこのようであることを、そのまま引き受けること。変えられないものを変えようとしないこと。知ルの静けさは、そうした境地から来ているのではないか。
京都という舞台装置
物語が京都を舞台にしていることは、偶然ではない。
京都は、日本における「知」の象徴都市だ。大学、研究機関、出版文化、そして何より千年以上にわたって蓄積された知の伝統。古都でありながら、同時に先端技術の中心地でもある。伝統と革新が共存する場所。
2081年の京都は、その象徴性をさらに増幅している。古い街並みと情報テクノロジーが共存する風景。過去から未来へと連なる時間の厚み。
そして京都は「諸行無常」の地でもある。平家物語が語り始められた場所。すべては移り変わる、という認識の起点。「すべてが決まっている」という全知者的認識と、「すべては流転する」という無常観。この二つは矛盾するようでいて、実は通底している。どちらも、人間の小さな主観を超えた視点から世界を見ることを要求するからだ。
野崎まどが京都を選んだのは、この舞台装置としての象徴性を十全に活用するためだろう。『know』は、知をめぐる哲学小説である。そしてその哲学は、東洋と西洋の思想が交差する地点で展開されている。
読者もまた、呼応する
『know』を読む体験は、知ルの「知」に触れる体験でもある。
読者は、連レルと共に知ルに出会う。彼女の言葉を聞き、彼女の認識に触れる。そして、自分自身の「知ること」についての前提を問い直すことになる。
私たちは何を知っているのか。知っていることと知っていると思っていることの違いは何か。すべてを知ることは祝福か呪いか。
野崎まどの小説は、そうした問いを読者に投げかける。天才と天才の対話を読むことは、読者自身がその対話に参入することを意味する。
これこそが、野崎まど作品の中毒性の正体だろう。彼の小説は、読者の知性を挑発する。「そうはならんやろ?」と思いながら、しかし論理を追うとそうなるしかない帰結に導かれる。その過程で、自分の認識の限界が拡張されていく感覚。
『know』における天才たちの問答は、読者という第三の天才を呼び覚ますための装置なのだ。
あらかじめ、すべて決まっている。
知ルならそう言うかもしれない。しかし同時に彼女は知っているはずだ。その決定された世界を、私たちが「知っていく」プロセスに意味があることを。
全知者にとっても、私たちにとっても、「知る」という行為の価値は変わらない。結果がわかっていても、その過程を生きることに意味がある。
野崎まどは『know』を通じて、そうした逆説的な希望を語っている。すべてが決まっているからこそ、今この瞬間を生きることに価値がある。知の究極は、知の放棄ではなく、知の肯定なのだ。