
宇多田ヒカルの元夫・紀里谷和明。彼は嫌われていた。業界に、世間に。
しかし彼の作品そのものは、観るに値する部分があった。彼が『世界の終わりから』で描いたAIとの対話。そして世界の終わり。
彼のキャリアを振り返る上で、どうしても素通りできない二つの強烈な「体験」がある。それは、過剰なまでの絢爛さで賛否を巻き起こした『GOEMON』(2009年)と、彼の「引退作」とされる『世界の終わりから』(2023年)だ。
これらは単なる「映画」ではない。あえて言おう、これらは紀里谷和明という作家が叩きつける、「観る価値のある」視覚的なマニフェスト(声明)である。
『GOEMON』――カラフルな地獄で叫ばれた「強さ」とは
まず『GOEMON』だ。 公開当時、多くの批評が集中したのは、その「ありえない」ビジュアルだった。安土桃山時代であるはずなのに、城はバロック建築のようであり、衣装は西洋甲冑と歌舞伎が融合したかのごとくサイバーパンク的ですらある。CGで構築された世界は、あまりに色彩過多で、現実感がない。
「ビジュアル先行で、物語が追いついていない」。 これは『CASSHERN』から続く、彼への常套句のような批判だった。
だが、今改めてこの作品を「浴びる」と、その批判がいかに的外れであったかを痛感させられる。あの過剰なビジュアルこそが、紀里谷監督が描きたかった「物語」そのものではなかったか。
この映画の豊臣秀吉が統治する世界は、一見、黄金に輝く絢爛豪華なユートピアだ。だが、その実態は、貧富の差が極端に広がり、庶民は搾取され、権力者(秀吉)の歪んだ欲望が全てを支配するディストピアである。
紀里谷和明が創り上げたあの「ありえない」ビジュアルは、まさにその「歪み」と「虚飾」の視覚化だ。リアルな時代考証など、彼にとってはどうでもよかった。彼が描きたかったのは、歴史としての安土桃山時代ではなく、「圧倒的な権力」という名のカラフルな地獄そのものだったのだ。
その地獄で、石川五右衛門(江口洋介)は叫ぶ。「強さとは何か」と。 彼は盗賊であり、反逆者だ。だが彼の「強さ」は、暴力や権力ではない。それは「自由であること」、そして「守りたいもののために、己の信念を貫くこと」だ。霧隠才蔵(大沢たかお)との宿命的な対立、茶々(広末涼子)への想い。それらすべてが、彼を「個」として立たせ、巨大なシステム(秀吉)へと立ち向かわせる。
これは、CGの派手な見本市などではない。システムに組み込まれることを良しとせず、たとえ敗れるとわかっていても「己」であろうとした男の、あまりにも純粋で、痛々しいほどの「意志」の物語だ。その過剰な映像は、彼の魂の爆発そのものだったのである。
『世界の終わりから』――「私には価値がない」と呟く、すべての人へ
そして、引退作『世界の終わりから』。 『GOEMON』がエネルギーを「外側」へと爆発させる映画だったとすれば、こちらは対照的に、絶望を「内側」へと深く沈潜させていく映画だ。
主人公は、夢も希望もなく、ただ日々をやり過ごす女子高生ハナ(伊東蒼)。事故で両親を失い、「自分には生きる価値がない」と信じ込んでいる。
この映画の核心は、「絶望」だ。
ハナが抱える「自分には価値がない」という感覚。これこそが、紀里谷和明がデビュー作から一貫して描き、そして最後に辿り着いたテーマだ。
『CASSHERN』では戦争という「巨大な絶望」が描かれた。『GOEMON』では権力という「システムの絶望」が描かれた。そして『世界の終わりから』では、私たち自身の「内なる絶望」が描かれる。
「世界を救う」という、一見すると陳腐で壮大な物語。だが、ハナにとって「世界」とは、自分以外のすべてであり、自分を肯定してくれない場所だ。彼女が「世界を救う」というミッションを与えられることは、裏を返せば「あなたには価値がある」と、最も強く彼女に突きつける行為に他ならない。
世界が終わるか、彼女が希望を見出すか。この映画は、世界の終わりという極限状況を借りて、「たった一人の人間が、自分自身を肯定できるか」という、最もパーソナルで、最も困難な問いを投げかけてくる。
なぜ今、この二作なのか
『GOEMON』と『世界の終わりから』。 一見、まったく異なる作風に見えるこの二作は、実は「コインの裏表」だ。
どちらも、圧倒的な「世界(システム、運命、絶望)」と、それに抗おうとする「孤独な個人」の物語である。 紀里谷和明という監督は、不器用なまでに、ただひたすらそれを描き続けた。
彼の映画は、そつなくまとまった「良い物語」を求める観客には、確かに不親切かもしれない。セリフは時に青臭く、直球すぎる。ビジュアルは過剰で、観る者に「解釈」の余地ではなく「体験」を強要する。
だが、それでいいのだ。 システムに違和感を覚えながらも声を上げられない私たち。『GOEMON』の過剰な色彩は、そんな私たちの内なる反逆の炎を可視化してくれる。 SNSのノイズの中で「自分」を見失いそうになる私たち。『世界の終わりから』のハナの絶望は、鏡のように私たち自身を映し出す。
彼の映画は「観る」のではない。その世界観と哲学を、全身で「浴びる」ものだ。 だからこそ、この二作は「観る価値がある」。私たちは、紀里谷和明が映像に叩きつけた純粋すぎる「意志」と「希望」の奔流を、今こそ浴びるべきなのである。