
思えば私はずっと、手の届かない女性に心を奪われてきた。めぞん一刻の音無響子、ティファニーで朝食をのホリー・ゴライトリー——亡き夫への愛という絶対的な壁の向こうに立つ女性と、傷を軽やかさで包んで誰にも触れさせない女性。手が届かない理由はそれぞれ違ったが、その切なさに胸を灼かれる構造はいつも同じだった。
そして今、私は毎週木曜日を待っている。
来見さんという存在
少年ジャンプ+で2025年5月から連載が始まった楠渚生の「気になる来見さん!」を、いまさら止められなくなっている。更新通知が来るたびに画面を開いて、来見さんの今週の顔を確認する。音無響子に恋した中学生の頃と、やっていることは変わっていない。ただあの頃と違うのは、今の私には来見さんが何者であるかを、少しわかった上で読んでいるということだ。
キャッチコピーは「トンデモ激重美少女と陰キャ鈍感男子のすれ違いラブコメ」。この一行でだいたい察する人もいるだろう。でもこの作品が単なる「激重ヒロインのラブコメ」だと思って読み始めると、どこかで足をすくわれる。来見さんは確かに激重だ。主人公・藤森のことをストーキングに近い形で観察し、日常の細部まで把握している。それだけ聞けば、ちょっと引く。でも読んでいると、まったく引かない。むしろ愛おしくなる。なぜか。そこに、この作品の核心がある。
そして何より、来見さんが可愛い。これは論理ではなく事実として言わなければならない。美しくて成績優秀でクラスで一目置かれていて、でも藤森のことになると途端に揺れる。その落差が、キャラクターとしての立体感を生んでいる。「激重」という言葉で括られてしまいがちだけれど、来見さんの感情には、常に傷ついた人間の繊細さが宿っている。その繊細さを楠渚生は丁寧に、時にコミカルに、でも決して軽くは描かない。一挙手一投足に、こちらの心が揺さぶられる。
愛の起源——救われたものへの執着
来見さんの「重さ」には、ちゃんと根っこがある。彼女の親との関係——毒親的な環境の中で育ってきた来見さんにとって、藤森という存在は、あるとき彼女を「救った」人間なのだ。その救いがどういう形のものであったかは、ぜひ本編を読んでほしい。ただここで言いたいのは、人は救われたものに愛を持つ、という単純で深い真実をこの漫画がきちんと描いているということだ。
愛の起源について、私たちは普段あまり考えない。なんとなく「好きになった」「かわいいと思った」「一緒にいると楽しい」——そういう曖昧な感情の束として恋愛を処理している。でも来見さんの愛は違う。彼女の愛には、明確な起点がある。あのとき、あの瞬間、藤森が自分のそばにいた。ただそれだけのことが、彼女の中でひとつの軸になっている。そしてその軸の周りに、執着が、観察が、ストーキングが、激重な感情の全部が巻きついている。
これを「歪んだ愛」と呼ぶことは簡単だ。でも私はそう呼びたくない。むしろこれこそが愛の原型に近いのではないかと思う。救われた体験が人を縛る。その縛りが時に相手を苦しめることもある。でもその縛りの内側には、純粋な感謝と、再び失うことへの恐怖と、「あなたがいなければ私は今ここにいなかった」という圧倒的な事実への身悶えがある。来見さんの重さは、その身悶えの重さだ。
ホリー・ゴライトリーのことを思い出す。あの映画のホリーは、自由奔放に見えて、実は深いところで傷ついていて、誰にも本当には触れさせない女性だった。孤独を軽やかに纏って笑っている。来見さんとは正反対に見えて、実は同じ構造を持っている。傷を誰にも見せないための鎧として、ホリーは軽やかさを選んだ。来見さんは執着を選んだ。どちらも、本質は同じだ。私を壊した世界から、私を守ってくれる何かにしがみつくこと。その何かがたまたまホリーにとっては「猫」であり「ニューヨークの夜」であり、来見さんにとっては「藤森」だったというだけのことだ。
藤森の側はといえば、注目されると声が出なくなるという体質を持つ、いわゆる陰キャだ。目立つことを避け、来見さんに憧れながらも接触できない。でもこの「鈍感さ」が、来見さんの激重な愛を受け止める器として機能している。鈍感だからこそ逃げない。気づいていないからこそ、そこにいてくれる。藤森は意図せず来見さんにとって「安全な場所」になっている。これが切ない。そして今、その安全な場所の扉がゆっくりと、内側から開こうとしている。
届きかけている愛の目撃者として
連載はいま、佳境に差し掛かっている。長く続いたすれ違いに、ようやく光が射し込み始めている。来見さんの激重な愛が、藤森に届こうとしている。これがまた、たまらない。すれ違いが続く間もずっと面白かったが、成就の気配が漂い始めた今の展開には、また別の種類の高揚がある。音無響子が五代裕作の気持ちをようやく受け取ろうとするあの終盤の緊張感に、少し似ている。長く待った分だけ、その瞬間は重くなる。
響子さんに恋した私は、彼女に届けることのできない愛の切なさの中に美しさを見ていた。オードリーの目の演技を何度見ただろう——言葉より先に感情が来る、あの目。傷を笑顔で包む女性の孤独の深さに胸を打たれていた。そして来見さんに恋している今の私は、救済から生まれた愛が相手に届く瞬間の手前に立っている。これは今までとは少し違う体験だ。届かない愛ではなく、届きかけている愛の目撃者になることの、じりじりとした幸福がある。
人は救われたものに愛を持つ。来見さんはそのことを、全身で証明しようとしている。毎週木曜日、私は彼女の一挙手一投足に心を動かされながら、その愛が完全に届く日を、静かに、でも確かに待っている。