
「意味がわからなかった」という感想が、あれほど均質に広がった映画を、私は他に知らない。
2023年の夏、宮崎駿の新作「君たちはどう生きるか」が公開されたとき、SNSは奇妙な静けさと混乱に満ちた。事前情報がほぼゼロだったことも影響しているが、それ以上に、映画を見終わった人々が「何を言えばいいかわからない」という状態に置かれていた。批判ではない。絶賛でもない。ただ、言葉が出てこない。
これは失敗だったのか。私はそう思わない。むしろ逆だ。「意味がわからなかった」という体験が均質に広がったという事実そのものが、この映画の本質を指し示している。
宮崎駿は、説明しないことを選んだ。それは意志的な行為だった。そしてその選択の背後には、受け手への深い信頼がある。
「説明する映画」を作ってきた男が、説明をやめた
宮崎駿のキャリアを振り返ると、彼がいかに「説明する映画」を丁寧に作り続けてきたかがわかる。
「風の谷のナウシカ」では、腐海という世界観の成り立ちと意味が、物語の進行とともに段階的に解き明かされる。「天空の城ラピュタ」は冒険の文法に忠実で、謎は提示され、回収される。「もののけ姫」では自然と人間の対立構造が、複数のキャラクターの視点を通じて丁寧に説明される。「千と千尋の神隠し」でさえ、異世界のルールはそのつど提示され、主人公——そして観客——はそのルールを学びながら前進する。
説明することは、宮崎の映画作りの根幹だった。それは観客への親切心であると同時に、世界観の精密さへの誠実さでもあった。
だからこそ、「君たちはどう生きるか」は異常に見える。塔は何か。インコは何を意味するのか。あの世界と現実はどう繋がっているのか。宮崎はその問いに答えない。答える素振りさえしない。
これは老いによる衰退だろうか。コントロールの喪失だろうか。私はそう読まない。この映画には、衰退とは正反対の、ある種の解放と確信がある。宮崎は意図的に手を離したのだ。説明という道具を、意識的に置いてきた。
説明とは、受け手を「わかっていない存在」として扱う行為である
ここで一度、「説明する」という行為の本質について考えたい。
説明とは、何かをわかっていない相手に、それをわかるように伝えることだ。つまり説明という行為は、構造的に、受け手を「まだわかっていない存在」として位置づける。説明する側は知っており、受け取る側はまだ知らない——この非対称性が、説明という行為の前提になっている。
映画においてこれは、作り手が観客を「導く必要のある存在」として扱うことを意味する。それは親切であり、同時に、ある種の上下関係でもある。
説明を拒否するとき、作り手は別の立場に立つ。「あなたは、自分でわかることができる」という信頼の表明だ。解釈の余地を残すことは、受け手の能力への敬意であり、受け手を対等な存在として扱う姿勢の現れだ。
濱口竜介の「ドライブ・マイ・カー」もまた、説明しない映画だ。主人公の内面は、セリフによって直接語られることなく、反復されるテキストと沈黙と距離の中に滲み出る。タルコフスキーの「鏡」は説明の概念そのものを解体し、記憶と夢と現実を分離不能なまま提示する。こうした映画たちに共通しているのは、観客を能動的な存在として扱うという前提だ。
「君たちはどう生きるか」はその系譜に属する。宮崎駿は晩年に至って、自身の映画作りの文法を根本から更新した。説明によって観客を導く映画作家から、沈黙によって観客を信頼する映画作家へ。
「わからなかった」は、映画との正しい関係だった
では、「わからなかった」と感じた観客はどうだったのか。
映画を見終わって「意味がわからなかった」と感じた人の多くは、おそらく自分を責めた。宮崎駿の映画なのに理解できなかった、と。あるいは映画を責めた。難解すぎる、自己満足だ、と。しかしどちらも、的を外れている。
「わからない」という体験は、この映画においては、失敗ではない。それはむしろ、映画が正しく機能したサインだ。
一つ、確認したいことがある。あなたはこの映画を見た後、誰かと話したくなったか。あるいは、何かを考え続けたか。映画のシーンが、翌日も頭に浮かんだか。
もしそうなら、映画はあなたに確実に作用している。語りたくなる衝動、考え続けてしまう感覚、記憶に残るイメージ——これらはすべて、映画が人の内側に入り込んだことの証拠だ。「わかった」映画よりも「わからなかった」映画の方が、長く残ることがある。それは、解釈の余地が残されているからだ。
「わかる」とは、ある意味で、終わることだ。答えが出れば、問いは閉じる。宮崎は答えを渡さなかった。だから問いは開いたままでいる。
「理解する映画」から「体験する映画」へ
映画には二種類ある——という乱暴な分類を、あえてしてみたい。
一つは「理解する映画」。物語の意味を把握し、テーマを受け取り、「わかった」という感覚で劇場を出る。これはこれで豊かな体験だ。もう一つは「体験する映画」。意味は明確に与えられず、観客は映像と音と時間の中に放り込まれる。「わかった」とは言えないが、何かが起きたという感覚が残る。
長い間、宮崎駿は前者の名手だった。そして「君たちはどう生きるか」で、後者の領域に踏み込んだ。これはキャリアの終着点ではなく、新たな問いの始まりだったのかもしれない。
あなたが次に映画館に行くとき、「わかろう」とする構えを少しだけ手放してみてほしい。説明を待つのではなく、体験の中にいることを許してみてほしい。映画は、あなたが理解するより先に、すでにあなたに何かを届けているかもしれない。
宮崎駿が問うているのは、映画の意味ではなく、映画とどう向き合うか、ということなのだとしたら——「君たちはどう生きるか」というタイトルは、主人公への問いであると同時に、観客への問いでもある。
あなたは、この映画とどう生きるか。