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剣はいつのまにか、コンピュータになっていた——『片田舎のおっさん、剣聖になる』を片田舎で読む

片田舎、という言葉について

タイトルに「片田舎」と入っている作品を、片田舎で読む。それだけで、この作品と私のあいだには最初から特別な回路が開いてしまっている。

私はここ数年、片田舎の学校でICT支援員をやってきた。子どもたちのタブレットを直し、先生方の困りごとを聞き、授業の隅で機材と格闘する仕事だ。派手さはない。中央から遠い。けれど毎日、目の前の一台一台と向き合ってきた。

『片田舎のおっさん、剣聖になる』の主人公ベリルは、片田舎で剣術道場を営む中年男だ。彼は自分を「ただの田舎の剣術師範」だと思っている。ところが彼の弟子たちは、騎士団長になり、一流の冒険者になり、国の中枢で活躍している。そしてその弟子たちが、師匠を放っておかない。田舎から引っ張り出しにやってくる。

フィクションは、読む人間の置かれている状況と無関係ではいられない。むしろ、自分の状況と共鳴した瞬間にだけ、フィクションは本当に「面白く」なる。この作品が私にとって面白いのは、まさにそういう共鳴が起きているからだ。

強いのに、強いと思っていない

ベリルという人物の核は、謙虚さにある。彼は実のところ途方もなく強い。何十年も剣一筋に生きてきた蓄積が、彼の身体には沈殿している。しかし本人だけがそれを知らない。「自分なんてまだまだ」と本気で思っている。

この構図は、エンタメとしてよくできている。読者だけが主人公の凄さを知っていて、主人公だけが知らない。周囲が驚愕するたびに、読者は気持ちよくなる。いわゆる「無自覚最強」の型だ。

ただ、そもそも、なぜ今「おっさんが実は最強だった」という物語がこれほど量産され、支持されるのか。読者の中心に、若さの物語からこぼれ落ちた中年層がいるからだろう。若い主人公が成り上がる物語には、もう自分を重ねられない。しかし、積み重ねてきた歳月そのものが力だった、という物語なら重ねられる。この型は、人生の後半戦に入った読者への、遅れてやってきた承認なのだ。

ただ、この型を単なる願望充足の装置として消費して終わるのは、もったいないと思う。ベリルの謙虚さは、演出上の道具である以上に、剣一筋に生きた人間の必然として描かれているからだ。長く一つのことを続けた人間は、その道の深さを知っている。深さを知っているからこそ、自分の現在地を「まだまだ」と測ってしまう。謙虚さとは性格ではなく、継続の副産物なのだ。

弟子たちに支えられる、ということ

もう一つ、この作品で描かれているのは、師が弟子に支えられるという逆転だ。普通、師弟関係は師が弟子を導くものとして描かれる。しかしベリルの物語では、大成した弟子たちが師を見出し、担ぎ上げ、新しい場所へ連れていく。教えたものが、巡り巡って自分を運ぶ乗り物になる。

私はここに、教育というものの一番美しい形を見る。ICT支援員として学校にいた数年間、私が子どもたちに教えられたことは、たぶん子どもたちが私から学んだことより多い。教えるという行為は一方通行ではない。撒いたものは、いつか思いもよらない形で返ってくる。ベリルの物語は、その返報を極端に誇張したファンタジーだが、誇張の根っこにあるのは、教えた経験のある人間なら誰でも知っている実感だ。

しかも注意深く読むと、ベリルが弟子たちに愛されるのは、彼が強いからではない。彼が謙虚だからだ。自分の手柄を数えない師だからこそ、弟子たちは安心して育ち、育ったあとも師のもとへ帰ってくる。謙虚さと「支えられること」は、この作品の中で因果として結ばれている。威張る師匠のところに、大成した弟子は戻らない。

剣をコンピュータに持ち替える

ここからが、私がこの作品を「自分の話」として読んでしまう理由だ。

今の子どもたちにとって、剣はコンピュータである。かつて剣が、身を立て、世界と渡り合うための道具だったように、今はコンピュータがそれだ。一人一台の端末が配られた教室で、子どもたちは剣を握る代わりにキーボードを叩いている。だとすれば、剣聖とは何か。コンピュータの達人のことだ。

私自身、剣をコンピュータに持ち替えて、この数年を走ってきた。片田舎で支援員をやりながら、AIを使い、自分のサービスを作り、記事を書き、走り続けてきた。そして最近、これまでやってきたことが少しずつ実を結び始めている。田舎の道場で素振りを続けてきた男が、ある日、外の世界に呼ばれる——そういう物語の入口に、自分が立っているような気がしてしまう。

そして、剣聖をコンピュータの達人と読み替えたとき、この作品の設定はもう一段深く効いてくる。ベリルの強さは、必殺技や才能ではなく、基礎の反復から来ている。地味な素振りの精度が、あらゆる応用を支えている。コンピュータの世界もまったく同じだ。AIという派手な必殺技が現れた今だからこそ、その下で効いているのは、地道に積んできた基礎——ファイルの扱い、ネットワークの仕組み、トラブルの切り分け——である。片田舎の教室で機材と格闘してきた日々は、私にとっての素振りだった。あの反復がなければ、AIという剣は振れなかった。

もちろん、これは願望だ。こうあったらいいな、という願望と作品が重なっているから、私はこの漫画が面白い。でも、それでいいのだと思う。フィクションの効用の一つは、願望に形を与えることだ。形を与えられた願望は、ただの妄想ではなく、目指す方角になる。

剣聖はまだ遠い

ただし、勘違いしてはいけない。私はベリルではない。

AIを使えば、昨日できなかったことが今日できる。その速度に乗っていると、つい自分が強くなったような錯覚に陥る。実を結び始めた、と書いたが、それは剣聖の域では全くない。素振りを何十年も続けた男の沈殿と、追い風に乗った数年の疾走とは、別のものだ。

そういう時に、この作品が効く。ベリルは強くなっても、認められても、謙虚さを手放さない。歳をとっても「まだまだ」と言い続ける。その姿は、エンタメとしての気持ちよさを備えながら、同時に、浮つきそうになる読者の襟首を掴んで引き戻す。娯楽作品でありながら、実用的なのだ。自分を引き締めなければならない時、私はこの漫画のことを思い出す。教訓として読んでいるのではない。面白がって読んでいるうちに、勝手に姿勢が正される。エンタメにしかできない効き方だと思う。

素振りを続ける

『片田舎のおっさん、剣聖になる』は、異世界ファンタジーの型に忠実な娯楽作品だ。しかしその型の中心に置かれているのは、地味な真実である。すなわち、一つのことを長く続けた人間だけが持つ深さと、深さゆえの謙虚さと、教えたものが返ってくる時間の長さ。

剣がコンピュータに置き換わっても、この真実は変わらない。私は片田舎で、今日も素振りを続ける。剣聖はまだ遠い。遠いと分かっていることが、たぶん、唯一の正しい現在地なのだ。