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フィッシュマンズ『ロングシーズン』とはなんだったのか

フィッシュマンズ『ロングシーズン』とはなんだったのか

1996年10月25日、日本の音楽シーンに一枚のアルバムが投下された。フィッシュマンズの5thアルバム『LONG SEASON』。約35分間、一曲として構成されたこの作品は、発売から30年近くが経過した現在においても、聴く者を戸惑わせ、魅了し続けている。

このアルバムを理解するには、まず「これは音楽作品である以前に、ひとつの体験である」ということを認識する必要がある。通常、私たちは音楽を「聴く」が、『ロングシーズン』は「泳ぐ」ものだ。佐藤伸治の浮遊するようなボーカル、柏原譲のミニマルなベースライン、茂木欣一の繊細なドラムワーク、そしてZAKが織りなすダブ処理とアンビエント的な音響空間。これらが渾然一体となって生み出すのは、時間の感覚が溶解していく35分間である。

時間芸術としての『ロングシーズン』

この作品の本質は、時間に対する挑戦にある。35分という長尺の一曲という形式は、単なる実験や衒学的な試みではない。むしろ、私たちが日常で経験する時間の流れそのものを再構築しようとする試みだったのではないか。

曲は穏やかなアンビエントから始まり、ダブレゲエのリズムが徐々に立ち上がり、ロックバンドとしてのダイナミズムを見せ、そして再び静寂へと回帰していく。この構造は、まるで一日の時間経過、あるいは季節の移ろい、さらには人生の周期そのものを象徴しているようだ。「ロングシーズン」というタイトルが示唆するのは、単なる長い楽曲ではなく、終わりのない、あるいは終わりと始まりが曖昧な、円環的な時間概念なのである。

佐藤伸治は曲中で「どこまで行っても終わらない季節」と歌う。この言葉は、単なる詩的表現を超えて、この作品が目指した境地を端的に表している。私たちは常に何かの季節の中にいて、それは終わったかと思えばまた始まり、始まったかと思えばすでに終わりに向かっている。その曖昧で、しかし確実に流れ続ける時間の感覚を、音楽という形式で提示したのが『ロングシーズン』だった。

ダブとアンビエントの融合が生んだ新しい地平

音楽的には、この作品はダブレゲエの手法とアンビエント・ミュージックの哲学を日本のロックバンドという形式に落とし込んだ、きわめて独創的な試みだった。ダブ特有のエコーやディレイの多用、音の空間配置へのこだわり、そしてリズムの反復がもたらす催眠効果。これらはジャマイカで生まれた音楽手法だが、フィッシュマンズはそこにブライアン・イーノ的なアンビエントの思想を接続させた。

重要なのは、彼らがこれらの要素を単に模倣したのではなく、独自の文脈で再解釈したことだ。佐藤伸治のボーカルは、力強く歌い上げるのではなく、まるで寝言のように、あるいは遠くから聞こえてくる誰かの声のように、ふわふわと浮遊する。この脱力したようでいて、しかし確かな存在感を持つボーカルスタイルは、90年代の日本が抱えていたある種の倦怠感や、バブル崩壊後の「何もかもが終わってしまった」という虚無感を、奇妙なまでに体現していた。

しかし同時に、この音楽には救済がある。絶望を歌いながら、音楽そのものが持つグルーヴの快楽によって、聴く者を「それでも生きていける」という場所へと導く。これは非常に逆説的だが、だからこそ普遍的な力を持っている。

90年代という時代の証言

『ロングシーズン』を考える上で、90年代という時代文脈は無視できない。1995年には阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こり、日本社会は大きな傷を負った。経済的には「失われた10年」の真っ只中で、高度成長期から続いてきた「右肩上がり」の物語は完全に崩壊していた。

このような時代に、フィッシュマンズは「終わらない季節」を歌った。これは単なる現実逃避ではない。むしろ、終わりと始まりが曖昧になった時代、何かが決定的に終わったのに、何も新しく始まらない時代を、そのまま音楽として提示したのだ。35分間、同じようなグルーヴが続き、しかし決して単調ではなく、微細な変化を繰り返しながら進行していく音楽。それは、変化のない日常が延々と続いていくような、90年代の時間感覚そのものだった。

佐藤伸治という才能と喪失

『ロングシーズン』を語る上で避けられないのが、ボーカリスト・佐藤伸治の早すぎる死である。1999年3月15日、33歳という若さで佐藤は心臓発作により急逝した。『ロングシーズン』リリースから3年後のことだった。

この事実は、作品に遡及的な意味を付与することになった。「どこまで行っても終わらない季節」と歌った彼自身の季節は、あまりにも早く終わってしまった。しかし皮肉なことに、その早すぎる終わりによって、『ロングシーズン』という作品自体は永遠性を獲得したとも言える。終わらないはずの季節が突然終わってしまったという事実が、かえって「終わらなさ」の意味を強調することになったのだ。

フィッシュマンズのラストライブとなった1998年12月28日の赤坂BLITZでの演奏は、のちに『98.12.28 男達の別れ』としてリリースされ、伝説となった。そこで演奏された『LONG SEASON』は、スタジオ版とは異なる、より激しく、より切実な演奏だった。まるで、佐藤自身が自分の「季節」の終わりを予感していたかのような、魂を削るような演奏だった。

普遍性への到達

『ロングシーズン』がなぜ今なお聴き継がれるのか。それは、この作品が90年代という特定の時代を超えて、人間の実存的な問いに触れているからだ。

私たちはみな、終わらない季節の中を生きている。日々は繰り返され、大きな変化はなく、しかし確実に時間は流れ、気づけば取り返しのつかない場所まで来ている。この作品は、そのような人生の本質的な構造を、音楽として結晶化させた。ミニマルな反復の中に無限の変化があり、静寂の中に膨大な情報があり、脱力の中に強靭な意志がある。

また、この作品は「完璧な未完成」という矛盾を体現している。35分間という枠組みの中で一応の完結を見せながら、しかし本質的には終わっていない。最後のフェードアウトは、音楽が消えただけで、「ロングシーズン」という季節そのものは続いている。聴き手の中で、記憶の中で、そしてこの作品を聴く次の誰かの中で。

結び - 問いとしての『ロングシーズン』

「フィッシュマンズ『ロングシーズン』とはなんだったのか?」という問いに、簡潔な答えを出すことは不可能だ。それは音楽作品であり、時代の証言であり、実験であり、祈りであり、諦念であり、希望である。35分間の音の流れであると同時に、永遠に続く季節の断片である。

この作品の真の価値は、明確な答えを提示しないことにある。『ロングシーズン』は問いかけ続ける。「終わらない季節とは何か」「流れ続ける時間の中で、私たちはどう生きるのか」「音楽は、人生は、いつ本当に終わるのか」。

そして聴き手は、35分間の旅を終えて、また日常に戻る。しかし何かが変わっている。時間の流れ方が少し違って感じられる。いつもの風景が少し違って見える。それこそが『ロングシーズン』が成し遂げた奇跡なのだ。

音楽は終わっても、季節は終わらない。私たちは今日も、終わらない季節の中を、ゆっくりと泳ぎ続けている。

 

 

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