
藤本タツキの『チェンソーマン』は、表面的には悪魔と戦うデビルハンターたちの物語だ。しかし、この作品の本質は別のところにある。それは、現代社会における「普通の幸せ」とは何か、そして私たちの欲望がどのように作られているのかを、驚くほど鋭く描き出した作品なのだ。主人公デンジが夢見る「普通の生活」——食パンにジャムを塗って食べること、女性と触れ合うこと——この「ささやかな」願いこそが、実は現代社会の残酷な真実を浮き彫りにしている。
極限の貧困が見せる「普通」の正体
デンジの置かれた状況は衝撃的だ。父親の借金を背負い、悪魔を狩って日銭を稼ぎ、食パン一枚すら贅沢品になる。多くの漫画の主人公が「中流家庭の高校生」から始まるのとは対照的に、デンジは社会の最底辺からスタートする。
この設定には深い意味がある。デンジを通して見ると、私たちが当たり前だと思っている「普通の生活」が、実は恵まれた状態なのだと気づかされる。一日三食食べられること、雨風をしのげる家があること、清潔な服を着られること——これらは誰もが享受できる「当たり前の権利」ではなく、実はお金がないと手に入らない「商品」なのだ。
デンジが「ジャムを塗った食パンが食べたい」と願う。この願いの切実さが、逆説的に、それすら叶わない現実の残酷さを浮き彫りにする。私たちにとっては些細なことが、デンジには手の届かない夢なのだ。
欲望は誰かに認められたいという叫び
デンジがデビルハンターになり、マキマと出会ってから、彼の夢は少しずつ変化していく。食事、住む場所、そして女性との触れ合い。ここで重要なのは、デンジが単に「モノ」を欲しがっているわけではないという点だ。彼が本当に求めているのは「普通の人間として認めてもらうこと」なのである。
これは私たちの日常とも重なる。新しいスマホを買うとき、ブランド品を身につけるとき、私たちは本当にその「モノ」自体が欲しいのだろうか。実は、それを持つことで得られる「周りからの評価」や「社会での立ち位置」を求めているのではないだろうか。
デンジが「普通」を夢見るということは、現代社会では「普通であること」自体が、努力して手に入れなければならない「商品」になっているということを示している。貧困とは単にお金がないことではなく、社会から「見えない存在」として扱われることなのだ。
マキマという完璧な支配のシステム
マキマというキャラクターは、この作品で最も重要な存在だ。彼女はデンジに「普通の生活」を少しずつ与えることで、彼を完全に支配下に置く。食事、住居、そして身体的な触れ合いの可能性——これらを段階的に与えることで、デンジの心を自分に向けて固定してしまう。
この構造は、実は私たちの働き方と驚くほど似ている。会社は給料、福利厚生、昇進の可能性という「ニンジン」をぶら下げることで、私たちの人生を会社中心に組み立てさせる。デンジがマキマに逆らえないのは、彼女が彼の生活の全てを握っているからだ。これは雇用関係における力の不均衡そのものである。
さらに興味深いのは、マキマが決して暴力的に見えない点だ。彼女は表面的には優しく、デンジに報酬を与え、褒めることで支配する。現代の権力は、昔のような露骨な抑圧ではなく、巧妙な誘導によって機能する。マキマはその完璧な体現者なのだ。
悪魔という名の、社会の暗部
『チェンソーマン』の世界では、悪魔は人間の恐怖から生まれる。しかし考えてみれば、人々が恐れるもの——銃、刀、支配、戦争——これらはすべて、人間社会が作り出し、時には利益を生み出すものとして使ってきたものだ。
特に「支配の悪魔」であるマキマの存在は象徴的だ。支配という行為は、実は私たちの社会の根幹にある。会社での上下関係、経済格差による力の差。でもそれが「悪魔」として描かれることで、まるで「外からやってきた脅威」のように見える。これは、社会そのものが持つ暴力性を、外部の敵として表現することで見えにくくしているのではないだろうか。
デンジがチェンソーの悪魔になることで人間でなくなりながらも、それでも「普通の人間らしい生活」を求め続ける。この矛盾こそが、現代社会の真実を物語っている。私たちは道具のように使われながらも、なお人間として認められることを求め続けている。
使い潰される体、満たされない心
デンジの身体は作品を通じて徹底的に傷つけられる。心臓を奪われ、血を吸われ、切り刻まれる。でも彼は再生する。この「不死身」という設定は、労働者が社会でどう扱われるかの比喩として読める。一人が倒れても、システムは次の人を補充すればいい。個人の苦しみは、全体から見れば些細な問題でしかない。
同時に、デンジ自身も消費する側でもある。彼は与えられた報酬——食事、住居、女性との接触——を貪欲に求める。しかしそれは決して彼を満たさない。一つの願いが叶えば、すぐに次の願いが生まれる。これは現代の消費社会の本質そのものだ。欲望は満たされるために存在するのではなく、次々と新しく生み出されるために存在する。
レゼやパワーとの関係で描かれるデンジの恋愛感情も同じだ。彼が求める「胸を揉む」といった直接的な願望は、商品化された性的関係の最も素朴な形だ。でもそれが叶えられても、デンジに本当の充足は訪れない。なぜなら彼が本当に欲しいのは、身体的接触そのものではなく、それが象徴するはずの愛情や承認だからだ。しかし現代社会では、愛情も承認も「商品」のようになってしまい、本来の温かみを失っている。
「普通」という最も手に入りにくいもの
物語が進むにつれて、デンジの「普通の生活」への憧れが、いかに実現困難な理想であるかが明らかになる。彼は食事を得た、住む場所も得た、女性との接触も経験した。それでもなお、彼は「普通」ではない。
なぜか。「普通」とは単にモノを揃えることではなく、人との関係性の総体だからだ。デンジには家族がいない。友人と呼べる存在も曖昧だ。彼のアイデンティティは「チェンソーの悪魔」という機能に縮小されている。つまり彼は、現代社会における「完璧な労働者」——機能だけを求められ、人間的なつながりから切り離された存在——なのだ。
ここに『チェンソーマン』の最も辛辣な洞察がある。現代社会における「普通」は、もはや誰にも到達できない幻想なのかもしれない。それは永遠に追い求められながら、決して手に入らない理想像だ。そしてシステムは、人々がその幻想を追い続けることで回り続ける。デンジが「普通」を夢見続けることが、皮肉にも彼をシステムに完全に組み込んでしまう。
笑いという残酷な鏡
『チェンソーマン』の不思議な魅力の一つは、これほど暗い話なのに、どこか可笑しみがあることだ。デンジの欲望の「ささやかさ」は、しばしば笑いを誘う。「ジャムを塗った食パン」「胸を揉みたい」——こういう願いを聞いて、私たちは思わず苦笑してしまう。
でもこの笑いには残酷さが潜んでいる。私たちがデンジの欲望を「ささやか」だと感じるのは、自分がそれより「上」にいると思っているからだ。私たちは彼を見下すことで、安心している。
しかし本当にそうだろうか。実際には、私たちもデンジと同じ構造の中にいる。私たちの欲望も、社会によって形作られ、商品化され、決して完全には満たされない。デンジを笑うことは、実はこのシステムの共犯者になることだ。作品は私たちをこの不快な自己認識へと導く。
同時に、藤本タツキという作家の特徴は、この悲惨な状況を糾弾しないことにある。作品は説教しない。ただ、状況をそのまま見せる。この突き放した態度こそが、逆に最も効果的だ。なぜならそれは、読者に自分で考えることを強制し、読者自身の立ち位置を問い直させるからだ。
第二部が示す新たな地獄
第二部で新しい主人公となる三鷹アサは、デンジとは対照的に「普通の高校生」として登場する。しかし彼女もまた、戦争の悪魔ヨルに取り憑かれ、暴力の連鎖に巻き込まれていく。
この対比は示唆的だ。デンジが外側から「普通」に入ろうとする存在なら、アサは「普通」の内側から落ちていく存在だ。つまり、現代社会では「普通」でいること自体が不安定で、誰もがそこから滑り落ちる可能性を抱えている。その恐怖こそが、システムを動かし続ける燃料なのだ。
アサの内面に描かれる自己嫌悪や承認への渇望は、SNS時代を生きる私たちにとって身近なものだ。「いいね」の数、フォロワーの数、他人からどう見られているか——これらへの執着は、まさにアサが抱える苦しみと同じ構造を持っている。
答えのない診断書として
『チェンソーマン』は、資本主義社会の問題を描いた作品として読むことができる。ただしそれは、外側から批判する作品ではない。この作品は、社会の仕組みを徹底的に推し進めて見せることで、その不条理さを露わにする。
デンジという、あらゆるものを奪われた主人公を設定することで、私たちが当たり前だと思っている「普通」が、実は特権的で手に入りにくい状態であることを示す。デンジが「普通」を夢見続けることの悲劇は、それが正当な願いでありながら、システムによって永遠に先延ばしにされることにある。
そして私たち読者も、この構造の外にはいない。私たちもまた、手に入らない「普通」を追い求め、消費し、認められたいと願う存在として、システムの一部になっている。
『チェンソーマン』が提示するのは、解決策ではない。それは診断だ。現代社会における欲望と暴力の構造を、物語という形で解剖する。その解剖があまりにも正確だからこそ、この作品は単なるエンターテインメントを超えた深みを持っている。
デンジの「笑える」欲望は、実は私たち自身の欲望を極端にした姿だ。その滑稽さを認識する瞬間、私たちは社会という巨大なシステムが、私たちを見て笑っている声を聞くのである。そしてその笑い声は、どこか虚しく、どこか恐ろしい。