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チェンソーマンは終わったのか——漫画が漫画を食べた日

2026年3月25日、チェンソーマン第2部が完結した。

第232話をもって「学園編」は幕を閉じた。チェーンソーマンは世界から消え、残ったのはアサとデンジの淡い恋心だけだった。

ネット上では戸惑いの声が広がった。「series finale」という海外公式の表現が波紋を呼んだ。第3部はあるのか。あの伏線はどうなったのか。主要キャラクターたちはどこへ行ったのか。

でも僕はそういうことより先に、別のことを考えていた。

藤本タツキは今回、何を解体したのか、と。

2部を擁護する

最初にひとつ言っておきたい。僕は2部が好きだった。

1部と比べてしまえばスケールは落ちる。マキマという圧倒的な悪の存在、公安という舞台、デンジの貧困と暴力から立ち上がる素朴なエネルギー——あの熱量を超えることは最初から困難だっただろうと思う。学園という舞台も、少年漫画的な文脈では「スリリングさ」を生み出しにくい。そこには構造的な難しさがあった。

それでも僕は、三鷹アサというキャラクターを通じて描かれた「戦争の悪魔とひとつの身体を共有する少女」という設定に、1部とは異なる種類の緊張を感じていた。アサ個人の感情と、歴史的・概念的暴力の化身であるヨルが、ひとつの自我の中で葛藤する——これは現代における「個人と歴史の関係」の批評として、静かに鋭かった。

突出したものはなかったかもしれない。でも、何かを丁寧に壊していく作業の跡が、読んでいて感じられた。

その「壊していたもの」が何だったのか。最終話を読んで、ようやくわかった気がした。

自分自身を食べた装置

チェンソーマンという作品の根幹の設定を思い出してほしい。

チェンソーの悪魔は、悪魔を食べることでその「概念」を世界から消去できる。核戦争の悪魔を食べれば、核戦争という恐怖が人類の集合記憶から消える。エイズの悪魔を食べれば、エイズへの恐怖が消える。チェンソーマンは「忘却の装置」であり、「恐怖の消去者」だった。

では、チェンソーマン自身が世界から消えるとはどういうことか。

忘却の装置が、自分ごと忘却される。消去者が消去される。これは「英雄神話が英雄神話を食べた」ということだ——と、最初は思っていた。

でも違う。もっと深い場所の話だと気づいた。

藤本タツキが食べさせたのは、英雄ではなく「漫画の文法」そのものではないか。

漫画が漫画を食べた

ルックバックは、漫画を描く二人の少女の話だった。あの作品は「漫画を描くことが世界を救えるか」という問いを立て、「救えない」と答えながら「それでも描く」という地点に着地した。さよなら絵梨は、フィクションが現実を食べる構造を、漫画という形式そのものでやってのけた。ファイアパンチでは途中から映画監督が登場し、物語に「意味」を与えようとして滑稽に失敗する。

藤本タツキは一貫して、「表現行為そのもの」を作品の中に持ち込む作家だ。

この視点でチェーンソーマンの設定を読み直すと、まったく違う景色が見える。

かつて読者を震わせた漫画の文法が、消費され、消えていく——少年漫画の友情と努力と勝利、バトルの熱狂、因果の快感、伏線回収の爽快感。それらが「悪魔として存在し、食べられ、世界から消えていく」ものとして機能していたのではないか。

2部の学園という舞台が、その読みをさらに強化する。学園こそが少年漫画のDNAが最も濃縮された場所だ。友情、恋愛、成長、競争——少年漫画的文法の母床で、藤本はその文法を使いながら同時に食べていた。だから2部がスリリングになりきれなかったとすれば、それは技術の問題ではなかった。スリリングさは漫画の文法に乗ったときに生まれるものであり、その文法を解体しながら乗ることは、そもそもできない。

藤本は意図して、乗れないところに立っていたのだと思う。

残ったもの

アクションが消える。因果が消える。成長譚が消える。伏線回収が消える。

最後に残ったのは、アサとデンジの淡い恋心だった。

「淡い」という言葉が重要だ。これは弱さではない。あらゆる漫画的文法を煮詰め、蒸発させ、最後に残った精製物の純度のことだ。チェーンソーマンという記号が消え、世界規模の戦いが消えた後に残る、名付けられる前の感情。それが「淡い」。

1部でマキマという完璧な悪が解体された後に残ったのは、ナユタという不完全な疑似家族だった。2部でチェーンソーマンというアイコンが消滅し世界が書き換えられた後に残ったのは、淡い恋心だった。

藤本は一貫して「完成しない感情」を描く。漫画が成就させてくれるはずの感情が、成就しない。ルックバックで二人の少女が深く交わることなく、それでも描くことを通じて届きあっていたように。チェーンソーマンの最後で、アサとデンジは世界規模の何かを経由して、それでも「淡い」ままでいる。

これは欠陥ではなく、藤本タツキの一貫したテーゼだと僕は思う。

物語になれなかった感情だけが本物だ、という信念。

書き続けた上の

ここで言いたいのは、この到達点が「書き続けた上の」ものだということだ。

英雄の解体なら、優れた作家なら一度はできる。でも漫画という表現形式そのものへの愛を、その愛を解体しながら、解体し終えた後にまだ淡く残るものとして描くためには、相当の量を描いた後でなければたどり着けない場所がある。

ルックバックもさよなら絵梨もチェーンソーマンも、藤本タツキは漫画を描くことをやめなかった。書き続けることによってしか辿り着けない問いを、彼は毎回更新している。

そしてデンジはチェーンソーマンを忘れた世界で本当の幸せにたどり着いた。

「終わったのか」への答え

アニメ「刺客篇」は制作決定している。第3部への問いは宙吊りのままだ。

でも僕はこう読む。

チェーンソーマンという作品は、自分の内部で「チェーンソーマンの終わり」を描くことによって、外側からの「終わり」に先手を打った。物語が自分自身を消去することで、消去されることへの免疫を作った。

「チェンソーマンは終わったのか」という問いへの答えは、だから——チェンソーマンは、自分で終わることを選んだ、だ。

刺客篇はメディアの側が残したチェンソーマンの残像だ。藤本本人の次の漫画は、おそらくもっと静かで、もっと淡く、そしてもっと深い場所から来るだろう。なぜなら彼は今回、漫画への愛を「淡いもの」として描ききった。その先に来るものは、もうチェンソーマンという問い方を食べた後の何かになるからだ。

それが何であれ、読む価値があるだろうと思っている。

 

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