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新井英樹『The World Is Mine』は2025年の熊被害を予見していたのか——物語が現実化する時

新井英樹『The World Is Mine』は2025年の熊被害を予見していたのか——物語が現実化する時

2025年、熊が「怪物」になった

2025年11月、環境省が発表したクマによる死傷者数は196人に達し、統計開始以来最悪のペースで推移している。死者は12人。これは過去最多だった2023年度の6人を大きく上回る数字だ。しかも被害の質が変わってきている。長野県飯山市では熊が住宅に侵入して3名が重軽傷を負い、秋田市の物流倉庫には熊が長時間立てこもった。もはや「山で遭遇する危険な野生動物」ではない。熊は私たちの生活圏に侵入し、人を襲う「怪物」として立ち現れている。

特に深刻なのは秋田、岩手、北海道だ。研究者たちは「新世代クマ」という言葉を使い始めた。人を恐れず、一度人里の味を覚えた熊たちは、親から子へその経験を学習し、人間の生活圏に繰り返し侵入する。2021年に北海道で人を殺害したヒグマが、2025年に再び人を襲って殺害していたことがDNA鑑定で判明した事例もある。熊は執拗に、確信的に、人間社会に接近している。

この状況を目の当たりにしたとき、私は一つの漫画作品を思い出さずにはいられなかった。新井英樹『The World Is Mine』(1997-2001)である。

誰も描かなかった「北海道から本州に渡る巨大熊」

『The World Is Mine』は90年代末を代表するカルト的傑作だ。理由なき殺人を繰り返す連続殺人犯モンとトシ、そして北海道から津軽海峡を渡って本州に上陸した謎の巨大生物「ヒグマドン」。この二つの「理解不能な暴力」が東北地方で交錯し、やがて世界を巻き込む終末的カオスへと発展していく物語である。

ここで重要なのは、ヒグマドンという存在の特異性だ。怪獣映画ならゴジラは海から来るし、キングコングは南洋の島から来る。しかし新井英樹が選んだのは「熊」だった。それも、北海道から津軽海峡を渡り、青森に上陸し、秋田、宮城と南下しながら人々を殺戮していく「熊」である。

私が知る限り、このモチーフを描いた作家は新井英樹しかいない。ゴジラやガメラ、モスラといった怪獣は無数に創造されてきた。しかし「北海道から本州に侵入する巨大熊」という想像力は、極めて特異なものだ。なぜ新井英樹は、よりにもよって「熊」を選んだのか。なぜ「津軽海峡を渡らせた」のか。

そして2025年、私たちは現実の熊被害の急増を目撃している。もちろん、津軽海峡を渡る熊はいない。ヒグマドンのように巨大化する熊もいない。しかし、北海道ではヒグマが、東北ではツキノワグマが、かつてない規模で人間社会に侵入し、人を襲っている。この符合は何を意味するのか。

物語は「予言」なのか——三つの解釈

新井英樹は未来を予言していたのか。この問いに対して、私は三つの解釈の可能性を提示したい。

解釈1:偶然の一致

最も表層的な解釈は、これを単なる偶然とするものだ。新井英樹は90年代末の時点で、日本人が漠然と恐れている存在として「ヒグマ」を選んだだけ。北海道のヒグマは実際に人を襲うし、本州のツキノワグマより遥かに危険だ。それが偶然、2025年の現実と符合した。

しかし、この解釈には限界がある。なぜなら、新井英樹の描写はあまりに具体的だからだ。「北海道から本州へ」「東北地方の南下」「人間社会への侵入」——これらすべてが偶然の一致だとするには、符合の精度が高すぎる。

解釈2:時代の無意識の表出

より深い解釈は、物語を時代の集合的無意識の表出と見るものだ。つまり、新井英樹個人が未来を予見したのではなく、90年代末の日本社会が抱えていた潜在的な不安が、彼という作家を通じて「ヒグマドン」という形象に結晶したのだと考える。

90年代末は何の時代だったか。バブル崩壊後の長期不況、阪神淡路大震災(1995)、地下鉄サリン事件(1995)、酒鬼薔薇事件(1997)。世紀末という言葉が実感を伴っていた時代だ。この時代の空気を一言で表現するなら、それは「秩序の外部からの侵入」への恐怖だった。

新井英樹が描いたのは、まさにこの恐怖の形象化だった。モンとトシは人間社会の論理を完全に拒絶する存在であり、ヒグマドンは文字通り自然からの侵入者だ。両者に共通するのは、それが「システムの外部」からやってくる、理解不能で管理不能な暴力だという点である。

そして2025年、私たちは再び「外部からの侵入」に直面している。しかし今回は、作家の想像力が生み出したヒグマドンではなく、現実の熊として。

解釈3:物語の予見的機能

私が最も重要だと考えるのは、第三の解釈だ。それは、物語が持つ「予見的機能」という概念である。

予言と予見は違う。予言は未来の出来事を超自然的に知ることだが、予見は現在進行中の変化の帰結を洞察することだ。そして優れた物語は、しばしば予見的機能を持つ。なぜなら、作家の想像力は、現実がまだ顕在化していない矛盾や亀裂を、形象化する力を持つからだ。

新井英樹が『The World Is Mine』を描いた1997年、日本社会はまだ熊被害の深刻化を認識していなかった。しかし、その背後では既に重大な構造的変化が進行していた。過疎化による山村の衰退、猟友会の高齢化、里山管理の放棄、野生動物の生息域拡大。これらはすべて、90年代には既に始まっていたプロセスだ。

新井英樹はこれを社会学的データとして認識していたわけではないだろう。しかし、作家の直観は、こうした潜在的な危機を感知する。そして彼はそれを「北海道から本州に渡る巨大熊」という形象に結晶させた。この形象は、ありえないようでいて、しかしあり得る。完全なファンタジーではなく、現実と地続きの恐怖なのだ。

なぜ「熊」だったのか——自然の復讐としてのヒグマドン

ここで根本的な問いに戻ろう。なぜ新井英樹は「熊」を選んだのか。

『The World Is Mine』という作品全体のテーマは、近代的な管理社会の崩壊である。モンとトシは人間社会のルールを拒絶し、暴力を行使する。一方、ヒグマドンは自然の猛威を体現する。両者は表裏一体の存在として、人間が構築してきた「秩序」を粉砕していく。

重要なのは、ヒグマドンが単なる怪獣ではなく「熊」である点だ。ゴジラは放射能の産物という設定を持つが、それはあくまでSF的な想像力の産物だ。しかしヒグマドンは、実在する動物である熊が、何らかの理由で巨大化したものとして描かれる。つまり、それは完全な虚構ではなく、現実との境界が曖昧な存在なのだ。

新井英樹は、90年代末の時点で、日本社会が「自然との関係性」において何か根本的な間違いを犯していることを、無意識的に感知していたのではないか。高度経済成長期以降、日本人は自然を「管理する」ことができると信じてきた。山は林業のために整備され、野生動物は保護区に閉じ込められ、人間の生活圏は自然から切り離されるはずだった。

しかし、この「管理」は幻想だった。過疎化によって人が山を離れると、野生動物は人間の生活圏へ侵入し始めた。猟友会の高齢化によって駆除の体制は脆弱化した。気候変動によって動物の生態も変化した。そして2025年、私たちは「管理不能な自然の復讐」を目の当たりにしている。

新井英樹が描いたヒグマドンは、まさにこの「自然の復讐」の形象だった。それは人間が勝手に引いた境界線を無視して侵入し、人間を殺戮し、やがては太平洋を覆うほどに巨大化する。人間の管理など無意味だと言わんばかりに。

私たちは「ヒグマドン」の時代を生きている

2025年の熊被害を報じるニュースを見るたび、私は『The World Is Mine』のあるシーンを思い出す。東北の人々がヒグマドンの襲来に怯え、自衛隊が必死に捕獲を試み、しかしその努力が虚しく感じられる瞬間だ。作中で、ある自衛官は英語のインタビューに下手くそな英語で答え、その姿が「ヒグマドン対策に追われる自衛官の心情を代弁する」と描写される。

私たちもまた、同じ無力感の中にいる。行政は対策を講じ、猟友会は駆除を試み、住民は熊鈴を鳴らす。しかし熊は止まらない。「新世代クマ」は人を恐れず、執拗に人間社会に侵入し続ける。私たちは何かに対峙しているが、その「何か」が正確には何なのか、まだ理解できていない。

新井英樹は25年前、この感覚を「ヒグマドン」という形で提示した。それは予言ではない。しかし、90年代末に既に始まっていた社会構造の変化を、作家的直観によって形象化したものだった。そして今、その形象が不気味なまでの精度で現実化している。

物語と現実の関係は、単純な因果関係ではない。物語は現実を予言するのではなく、現実の深層構造を照らし出す鏡なのだ。そして時に、その鏡に映った像が、何年も後に現実の表層に浮上してくることがある。

2025年、私たちは「ヒグマドン」の時代を生きている。それは巨大化する怪獣の時代ではなく、人間が構築してきた「自然との境界」が崩壊する時代だ。新井英樹が描いた世界は、フィクションであることをやめ、私たちの現実となった。

この符合が意味するのは、物語の力だ。優れた物語は、時代の無意識を形象化し、まだ見ぬ未来を予見する。そして私たちは、その物語を読み返すことで、自分たちが今どこにいるのかを理解することができる。

『The World Is Mine』を今読み返すべき理由がここにある。それは単なる90年代のカルト漫画ではない。それは、2025年の私たちに向けて書かれた、予見の書なのだから。