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NARUTO、呪術廻戦にみるAKIRAの残滓

NARUTO、呪術廻戦にみるAKIRAの残滓

はじめに――少年漫画に刻まれた予言の書

大友克洋の『AKIRA』が1982年に連載を開始してから40年以上が経過した。しかし、この作品が日本の少年漫画に刻んだ傷痕は、いまだに癒えることなく、むしろ時を経るごとに深化している。『NARUTO』『呪術廻戦』という二つの時代を象徴する作品を通して見えてくるのは、『AKIRA』が単なる影響源ではなく、少年漫画というジャンルそのものに埋め込まれた遺伝子として機能し続けているという事実だ。

私たちが目撃しているのは、影響関係という生易しいものではない。『AKIRA』は、少年漫画が無意識のうちに参照せざるを得ない原風景として、作家たちの身体に刻み込まれているのである。

廃墟と再生の弁証法――都市空間の政治学

『AKIRA』が提示したネオ東京という空間は、戦後日本の廃墟からの復興という歴史的記憶と、バブル期の狂騒的な都市開発、そして来るべき崩壊への予感が三重に折り重なった場所だった。重要なのは、この都市が単なる舞台装置ではなく、登場人物たちの内面と完全に同期している点である。鉄雄の暴走する超能力は、制御不能に肥大化する都市開発のメタファーであり、金田のバイクが疾走する高速道路の廃墟は、崩壊しつつある共同体の残骸そのものだった。

『NARUTO』の木ノ葉隠れの里は、この構造を驚くべき形で継承している。九尾による里の破壊という過去の傷痕と、その廃墟の上に再建された現在、そしてナルトという存在が内包する破壊の可能性。木ノ葉の里は常に、破壊と再生の狭間で揺れ動く不安定な空間として描かれる。ペイン襲来による里の壊滅的破壊は、まさに『AKIRA』のクライマックスにおける東京崩壊の反復であり、そこからの再生というテーマは、岸本斉史が『AKIRA』から受け取った最も本質的な遺産だろう。

『呪術廻戦』における渋谷事変は、さらに複雑な形でこの系譜を引き継ぐ。現実の渋谷という具体的な都市空間を舞台にしながら、そこを呪霊たちの「帳」によって異界化し、最終的には壊滅的な破壊に至らしめる。芥見下々が描くのは、『AKIRA』が予言した都市の崩壊が、もはや未来の出来事ではなく、私たちが生きる現在進行形の現実として立ち現れる瞬間である。渋谷という消費社会の象徴空間が、呪術という前近代的な力によって破壊される構図は、近代化と開発が生み出した歪みという『AKIRA』的主題の現代的変奏に他ならない。

力の肥大化と自己の崩壊――超能力というトラウマ

『AKIRA』における鉄雄の超能力覚醒は、少年漫画史上最も残酷な「成長物語」の否定形だった。力を得ることは祝福ではなく呪いであり、自己実現ではなく自己崩壊のプロセスとして描かれた。鉄雄の肉体が制御不能に変異し、最終的には人間の形態を失っていく過程は、力そのものが持つ暴力性と破壊性を視覚化した究極の表現だった。

『NARUTO』は、この構造を九尾というシステムに置き換えることで、より精緻に展開する。ナルトの内部に封印された九尾は、まさに鉄雄の暴走する超能力の変奏である。重要なのは、ナルトが九尾の力を「制御」することで物語が進行する点だ。これは一見、『AKIRA』の否定のように見える。しかし実際には、制御という名の下で、ナルトは常に自己崩壊の危険と隣り合わせにある。九尾化したナルトの姿は、鉄雄の変異する肉体と同じく、力の暴走が自己の解体に直結することを示している。クラマとの和解は、この暴力性を一時的に中和するが、それは根本的な解決ではなく、むしろ暴力を内面化し、システムとして組み込むという、より洗練された形での『AKIRA』的テーマの継承なのだ。

『呪術廻戦』における虎杖悠仁と宿儺の関係は、この系譜の最新形態である。虎杖の身体に宿る宿儺は、もはや制御の対象ですらない。宿儺は虎杖の意思とは無関係に暴力を行使し、虎杖はその結果に対する責任だけを負わされる。ここには、力の所有という概念そのものへの根源的な疑義がある。芥見は『AKIRA』が提示した「力の獲得=自己崩壊」という命題を、「力を持つこと自体が不可能である」という更なる絶望へと押し進める。渋谷事変における宿儺の暴走と、その結果としての大量虐殺は、虎杖の意思とは完全に切り離された暴力として機能する。これは鉄雄の暴走の、より純化された、より絶望的な形態なのである。

友情の不可能性――関係性の臨界

金田と鉄雄の関係性は、少年漫画における友情というテーマの最も残酷な解体だった。幼なじみであり、仲間であったはずの二人は、力の獲得によって決定的に分断される。しかも、その分断は単純な対立ではなく、鉄雄の金田に対する屈折した劣等感と、金田の鉄雄に対する救済不可能性という、より複雑な感情の絡み合いとして描かれた。『AKIRA』が示したのは、友情という関係性もまた、力の暴力性の前では維持不可能であるという冷徹な真実だった。

『NARUTO』のナルトとサスケの関係は、この構造を中心テーマに据えた物語だと言える。二人の関係は、金田と鉄雄の反復であると同時に、その救済の可能性を探る試みでもある。サスケの里抜けは鉄雄の暴走に対応し、ナルトによる執拗な追跡は金田の姿勢の継承だ。しかし岸本は、最終的にナルトとサスケを和解させることで、『AKIRA』が提示した絶望に対する一つの回答を示そうとした。だが、この和解が成立するためには、両者が互いに腕を失うという身体的な犠牲が必要だった。友情の回復は、身体の欠損という代償なしには不可能だったのである。これは『AKIRA』的な暴力性を完全には乗り越えられなかったことの証左だろう。

『呪術廻戦』における虎杖と伏黒の関係、そして虎杖と釘崎の三者関係は、さらに複雑な様相を呈する。芥見が描くのは、友情や仲間という関係性そのものが呪いとして機能する世界だ。大切な者の死は、生き残った者に取り返しのつかない傷を残す。釘崎野薔薇の「死」(その曖昧な状態も含めて)は、虎杖に決定的な罪悪感を刻み込む。ここでは、関係性を持つこと自体が暴力なのだ。芥見は『AKIRA』が示した友情の不可能性を、より現代的な、より実存的な問題として再提示している。

予言としてのAKIRA――終わらない物語

『AKIRA』が描いた2019年の東京オリンピック、そして崩壊は、奇妙な形で現実と交錯した。2020年(2021年開催)の東京オリンピックは、パンデミックという形で中断と変容を経験した。大友克洋の予言は、文字通りの的中ではなく、より本質的なレベルで的中したのである。都市の祝祭が崩壊の予兆であり、開発と破壊が表裏一体であるという認識は、もはや寓話ではなく、私たちが生きる現実そのものだ。

『NARUTO』が描いた忍の世界の戦争と、その後の不安定な平和は、戦後日本の縮図である。『呪術廻戦』が描く呪術師社会の腐敗と、呪霊との終わりなき戦いは、現代社会のシステム的暴力のメタファーだ。両作品が『AKIRA』から受け継いだのは、単なる物語の型ではない。それは、私たちが生きる社会そのものが内包する暴力性と崩壊の可能性を、少年漫画という形式を通して可視化する方法論なのである。

『AKIRA』は終わらない。それは後続の作家たちによって、繰り返し参照され、変奏され、更新され続ける。『NARUTO』『呪術廻戦』に見る『AKIRA』の残滓は、単なる影響の痕跡ではなく、少年漫画というジャンルが、この社会の暴力性と向き合い続けるための、不可欠な遺伝子なのだ。大友克洋が描いた崩壊の予言は、今も私たちの無意識に刻まれ、新たな物語を生み出し続けている。

 

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