
マイケル・ジャクソンについて書くことは、80年代のアメリカについて書くことだ。そしてそれは、ショービジネスというシステムが人間に何を約束し、何を奪ったかについて書くことでもある。
約束の証明
1982年、『スリラー』が世界を飲み込んだとき、そこにあったのは一つの完璧な証明だった。インディアナ州ゲイリーの労働者階級の黒人家庭から出た少年が、地球上で最も有名な人間になる。人種を超え、国境を超え、言語を超える。ショービジネスのアメリカとは、まさにこの約束のことだった。才能とパフォーマンスさえあれば、あらゆる壁は消滅する。出自も肌の色も関係ない。ステージの上では誰もが平等であり、そしてステージの上でこそ人間は最も輝く。これはレーガン時代のアメリカが世界に向けて発信した、もう一つのアメリカン・ドリームだった。政治や経済ではなく、エンターテインメントを通じた民主主義の輸出。ハリウッドとMTVとペプシのCMが描き出す、陽光に満ちた帝国。
そしてマイケルは、その約束を完璧に体現した。『スリラー』のミュージックビデオは、音楽が「聴くもの」から「見るもの」へと転換した瞬間の記念碑だ。14分間のショートフィルム。ゾンビの群舞。あの振り付け。MTVが全米の家庭に届けたのは、音楽ではなくスペクタクルだった。マイケルのムーンウォークを見るために人々がテレビの前に集まったとき、アメリカのショービジネスは一つの頂点に達した。人間のパフォーマンスが、それ自体として、世界を動かしうるという信仰の頂点に。
書き換えられる顔
だが、光と影という言葉がここで必要になる。
なぜなら、マイケルの身体そのものが、ショービジネスの約束の光と影を同時に刻印された場所だったからだ。彼の顔は変わり続けた。肌は白くなった。鼻は細くなった。顎のラインは削られた。彼の顔の変容について、人種的自己否定だとか、醜形恐怖だとか、さまざまなことが言われてきた。だが、もっと構造的なことがここにはある。ショービジネスとは、私的な身体を公的なイメージへと変換する装置だ。観客の欲望を読み取り、それに応答し、自分自身をスペクタクルとして差し出し続ける装置。マイケルの整形は、その装置が究極まで作動した結果だった。彼は自分の顔を、世界が見たい顔に書き換え続けた。あるいは、世界が見たい顔がもはやわからなくなってもなお、書き換えることをやめられなかった。パフォーマンスが身体を喰ったのだ。
ステージを降りられない王
ここに、ショービジネスのアメリカの根本的な逆説がある。ステージの上では誰もが平等だという約束は、裏を返せば、ステージの上にいる限りにおいてしか人間は価値を持たないということだ。パフォーマンスを止めた瞬間、魔法は解ける。だからマイケルは止まれなかった。ネバーランドという名の牧場を建て、遊園地と動物園を作り、子どもたちを招き、自分自身の永遠の少年時代を演出し続けた。彼が「キング・オブ・ポップ」と呼ばれることに固執したのは、虚栄ではない。王であり続けることだけが、ゲイリーの少年に戻らずに済む唯一の方法だったからだ。
そして数々の疑惑。裁判。スキャンダル。ここで道徳的な判断を下すことがこの論考の目的ではない。ただ、構造を見る必要がある。ショービジネスの装置は、人間を公的イメージに変換する過程で、私的な領域との境界を消滅させる。マイケルにとって、プライベートという概念はもはや機能していなかったのではないか。すべてがステージであり、すべてがパフォーマンスであり、そしてそのことの意味が、彼自身にもわからなくなっていた。それは個人の病理ではなく、システムの帰結だった。
見えない帝国
今、アメリカの帝国的な輝きの中心にいるのは、エンターテイナーではなくエンジニアだ。シリコンバレーが世界に輸出しているのは、スペクタクルではなくインフラストラクチャーだ。アルゴリズム、プラットフォーム、データ。それは見えない帝国であり、だからこそマイケルの時代のアメリカとは質的に異なっている。80年代のアメリカは、少なくとも自分の顔を世界に晒していた。その顔が整形され、変容し、最終的には判別不能になったとしても。シリコンバレーのアメリカには、晒すべき顔すらない。ザッカーバーグの無表情とマイケルのムーンウォーク。どちらがより誠実だったかと問うことに、意味があるかどうかはわからない。だが少なくとも、マイケルは自分の身体を差し出していた。
THIS IS IT
2009年6月25日、マイケル・ジャクソンはプロポフォールの過剰投与で死んだ。50歳だった。『THIS IS IT』と題されたカムバック・コンサートのリハーサル中だった。THIS IS IT——これで最後。あるいは、これこそが本物。最後のステージに向かう途中で倒れたこと。それがショービジネスのアメリカの、最も正確な墓碑銘だったのかもしれない。
ショービジネスのアメリカは正しかったのか、間違っていたのか。その問いに答えることは、おそらくできない。だが、少なくともそこには、人間が自分の身体と才能を賭けて世界と対峙するという、ある種の倫理があった。その倫理が人間を破壊するものでもあったということ。光と影とはそういうことだ。マイケル・ジャクソンは、その両方を一つの身体に引き受けた。そしてその身体は、もう、どこにもない。