
来なかった
村上春樹の新しい長編を読んだ。初読で、しかもざっと読んだ段階の話をする。だから以下は書評ではない。作品の出来については何も書かない。褒めもしないし、貶しもしない。書くのは、読んでいるあいだに僕の側で起きたことだけだ。
結論から書けば、来なかった。
面白くなかった、という意味ではない。つまらなかった、でもない。そういう言葉はどれも作品の側に判定を下す言葉で、いま言いたいこととは方向が違う。最後まで通して、本を閉じて、それで、何も起こらなかった。石を投げたのに水面が動かない、というのに近い。石が悪いのか、水が凍っているのか、僕が投げたつもりで手を離していなかったのか、そこが判別できない。
五十歳の頃の村上春樹
五十歳の頃の村上春樹は、凄かった。
僕にとってこの作家は、長いあいだ、小説家であると同時に年齢の指標だった。前を歩いている人がいて、その人がその年齢で何をしているかを見ることで、自分の先にある道の幅を測っていた。僕は五十という数字を、もう終わりにさしかかる年齢だと思っていた。体のこともあって、そう思う理由もあった。だが違った。五十の村上春樹は、終わりにさしかかってなどいなかった。あれを見てしまった以上、五十を終わりと呼ぶことはできなくなった。指標としての彼は、そのとき確かに効いていた。
そして今回、作品のほうは来なかった。
有益、という言葉について
読んでいる途中で、ひとつ言葉を思いついた。僕はもう、この作家にとって有益な読者ではないのだろう、と。
有益、という言葉は普通、本の側に向けて使う。この本は有益だった、と僕たちは言う。読者は常に受け取る側で、価値を測る側にいる。だがあるとき、その関係がひっくり返っていることに気づく。作品の側にも、それを正しく受け取れる読者というものがある。作品が要求する速度、関心の向き、人生の局面。そこに自分が合致しているとき、人は有益な読者でいられる。合致しなくなったとき、その本にとって自分は、ただの通過者になる。
これは相性の話ではない。局面の話だ。同じ本が、二十歳で読めば素通りし、四十歳で読めば刺さる。逆も起こる。そのとき変わっているのは本でも読者の能力でもなく、読者が立っている場所だ。だから「効かなかった」という報告は、作品についての情報をほとんど含んでいない。含んでいるのは報告者の現在地だけだ。この記事もそうなる。
魔法が解けた、と言いたくなる
こういうとき、人は「魔法が解けた」と言いたくなる。実際、その言葉は浮かんだ。だがこの言い方には落とし穴が三つある。
ひとつ、作家が衰えたのだ、という回収。証明する気もないのに口にした瞬間、ただの悪意になる。ふたつ、自分が成熟したのだ、という回収。かつて夢中になったものから卒業した、という物語ほど、書き手を安く見せるものはない。みっつ、時代が変わったのだ、という回収。これは何も言っていないのと同じだ。
だから四つめの言い方を探す。
魔法は、はじめから作品の中になかったのだと思う。僕の中にもなかった。魔法があったのは、作品と僕のあいだの位相だ。たまたま二つの周期が噛み合っていた期間があって、そのあいだに読んだものが強く効いた。だとすれば、解けたのは魔法ではない。同期だ。そして同期は、どちらが悪くなくても終わる。
ひとつ、正直に書いておかなければならないことがある。僕はこの本を待っていた。発売日を知っていたし、出たら買うだろうと思っていたし、実際にそうした。だがその「待った」は、こちらが勝手にやったことだ。本のほうは、待たれていたことを知らない。読者が投じた時間は、テクストの中には一行も含まれていない。待った分だけ返ってくるはずだという感覚は、たぶん読書とは無関係の、別の種類の期待だったのだと思う。効かなかった原因の何割かは、そこにあるのかもしれない。だがそれも、僕の側の事情だ。
棚に入れる
ただ、この本を手放す気にはならなかった。棚に入れながら、僕は「いつか参照するかもしれない」と考えていた。いま効かなかったものを、後で必要になるかもしれないから取っておく。読み物としてではなく、備品として置く。だがよく考えれば、蔵書とは元来そういうものだ。今日の自分のための本だけを持っている人間を、蔵書家とは呼ばない。
今回の長編は家族の物語だという。この作家がこれまでほとんど書いてこなかった領域だ。それが僕に来なかったということは、いまの僕に家族の問題が発生していない、ということかもしれない。作品は、それを必要としている人のところに届く。
ではそれは、いいことなのか。
いいことかもしれない。何も起きていないというのは、それ自体が幸運だ。だが、悪いことかもしれない。起きていないのではなく、起きているのに感知できていないだけかもしれない。あるいは単に、いま別のことで手一杯で、他人の家族に割く余白がないだけかもしれない。どれなのかを、僕は判別できない。判別できるとしたら、いつか本当にその問題が来て、棚からこの本を取り出す日だ。
あちら側の時間
そして、もうひとつ判別できないことがある。あちら側の時間だ。
彼はいま七十七歳になる。五十の村上春樹が終わりでなかったように、七十七の村上春樹もまた終わりではないのかもしれない。あるいは、いま僕が読んだものこそが、本当の老年というものの始まりなのかもしれない。日本語で書かれた小説には前例がある。谷崎潤一郎が『瘋癲老人日記』を書いたのは七十代の半ばだった。老年は衰退の形式ではなく、ひとつのジャンルになりうる。だとすれば、いま僕が受け取れていないのは、まだ僕がそのジャンルの読者ではない、というだけのことだ。
そしてこれは、悪い知らせではないのかもしれない。読者にはたぶん順番がある。読める本の順番があり、まだ読めない本は、読めるようになるまで先に積まれている。順番があるということは、自分の前にまだ積まれたものが残っているということでもある。有益な読者でなくなるというのは、どこかで有益な読者になり直す余地が残っている、という言い方に裏返せる。裏返せるが、裏返した先が本当にあるのかは、確かめようがない。
それとも、まだ先があるのか。わからない。
二つのわからなさ
こうして、二つのわからなさが並ぶ。僕に先があるかどうかもわからないし、彼に先があるかどうかもわからない。位相はいちどずれた。だが位相は、ずれたあとでもう一度噛み合うことがある。その日が来るかどうかも、わからない。
なぜ再読してから書かないのか、と思われるかもしれない。再読は、必ず和解を作ってしまうからだ。二度目に読むとき、人は一度目に効かなかった理由を探しにいく。探せば何かが見つかる。見落としていた伏線、気づかなかった構造。それらは発見のように見えて、実際には和解の手続きだ。二度読んで嫌いなままでいるのは、一度読んで嫌いなままでいるより、はるかに難しい。
だから、効かなかったという事実には、初読にしか残らない鮮度がある。それを記録しておきたかった。半年後に再読して、まったく別のことを書くかもしれない。そのときは、この記事が反証されればいい。
有益な読者ではなくなった。それが、この夏に確認したことだ。